家に帰ったら、同居人が缶コーヒーを茹でていた。
「ただいま。なにしてんの」
「あっためてるの」
熱湯の煮える片手鍋には、蓋の開いた缶コーヒーが立っている。同居人は巻いた髪をポニーテールにしたまま缶コーヒーを見下ろしている。私が説明を求めてしばらく見ていると、同居人は私を二回見てからため息をついた。
「もらったの、でも飲まずに持って帰っただから冷めちゃったの、だからあっためてるの。湯煎で。わかって」
「カップに移してチンすればよくない?」
同居人は私の言葉を無視して「そろそろいいかなあ」と火を止めた。どうするつもりかなと見ていると、同居人はお湯に触れないよう慎重に手を伸ばし、缶の縁に触れた途端「あっ……つ!」と手を引っ込めた。
「カップに移してチンすればよくない?」
「うるさいなあ早紀ちゃんは」
今度は無視されずに怒らせたことに満足したので、私は布巾を畳んで缶にかぶせ、そっと持ち上げてコンロの横に下ろしてやった。同居人は聞き取れないほど小さな声で「ありがと」と呟いたが、怒らせたばかりなので聞こえなかったことにしておいた。
コートを脱いでハンガーにかけ、手を洗ってトイレに行って台所に戻ってくると、同居人はまだ缶コーヒーをつついていた。布巾にくるんでそっと持ち上げ、唇に近づけては離している。私の視線に気づくとばつが悪そうに目をそらしてから、髪が揺れるほどの勢いで顔を上げ「もっかい言ったら怒るから!」と叫んだ。もう怒っている。私は「カップに」と言いかけた口を噤んで、電気ケトルに水を注いだ。立ったままお湯が沸くのを待つ。
「デートだったんでしょ?」
「そう」
「でもこんな時間に帰って来たんだ」
「そう」
同居人はきれいに巻かれたままの髪をいじりながら答えた。晩ご飯は食べたけど、ホテルには行かなかった、ということだろう。お酒も飲まなかったのかもしれない。この髪の作り方だからたぶん初めての相手、しかもそれなりに気合を入れて行ったのだろう。気の毒になって、缶コーヒーから目をそらしてやった。
ケトルが静かに音を立てはじめる。同居人は右足のつま先をとんとん床に打ちつけながら、「あっこれ解散になるな、って思ったから、お茶でも飲んできませんか、って言ったのね」と呟く。うん、と返事をすると、同居人は眉根を寄せて続けた。
「ああじゃあ、って言って、あっちにスタバあったなって見たら、いないの。その人。自動販売機のほうに走ってって」
「それで」
「くれたの」
「はあ」
「あったかいよって」
どういう男だ。思わず同居人の顔と缶コーヒーを見比べて、もう一度同居人を見た。きれいにつけられたチークの向こうに、ほんとうに赤い顔が透けて見える。「えっ」と思わず漏れてしまった声を聞き逃さず、同居人は顔を覆って「そうなんだよお」と叫んだ。ケトルの音がごとごというものに変わった。
「そ、そうなの……あんたの好みはよくわからないな……いやでもそれは……脈なしじゃん?」
「だよね、私もそう思うの、早紀ちゃんもそう思うならほんとうにそうなんだあ」
言ってしゃがみこみ、シンクの淵に手をかけたまま腕の間に頭を落としてうなだれている。私は言葉もなく、とりあえず頭を撫でてやった。髪を結んだ女の子の頭は撫でづらい。同居人はおとなしく撫でられながら、台所の壁を見つめている。ばしんとスイッチの戻る音がして、ケトルが沸騰を知らせた。
「コーヒーが冷めるまで一緒にいたの、ベンチに座って。冷めちゃったし帰りましょうかって言われるまで。その間すごく幸せだった。でもね、あの……早紀ちゃんは怒るかもしれないけど……」
「なに」
「コーヒーを飲んじゃう幸せもあるんだよね、二人で並んであったかいもの飲む幸せも。両方ほしくなっちゃって、つらかった」
それのなにが私を怒らせるのか、いまひとつ分からない。私は自分のカップを取り出して、緑茶のティーバッグを放り込んだ。
しかし好きな人と飲んだ缶コーヒーを缶コーヒーのまま飲みたいなんて、この子にもかわいいところがあったものだ。私がそんなことを思いながら緑茶を飲んでいると、同居人は「はあ……よし……」と呟きながらふらふらと立ち上がった。持てる程度に冷めた缶コーヒーに口をつけると、白いのどを反らして一気飲みする。カン! と小気味良い音を立ててシンクに置き、「絶対落とす」と宣言した。
そのまま髪をほどいて風呂場に向かい、脱いだ服を投げ始めるので、私は「コーヒー! ちゃんと片付けて! とっとくなら洗って!」と叫んだが、全裸の彼女はけげんそうな顔で脱衣所から出てきて缶を一瞥し、「え、捨てといて」とだけ言って顔をひっこめた。