好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】体を拭く

 愛良が酔って帰ってきた。

 玄関が開いた音がしたのにそのあと足音が続かないので見に行ってみると、愛良は靴を履いたまましゃがみ込んでいた。おい、と肩をゆすると、なんとなく湿っている。外は霧雨だ。

「酔っぱらってるの? 吐きそう?」

「……大丈夫。眠い」

「シャワー浴びてきな。焼き肉のにおいすごいよ」

 手を引いてやろうかと思ったが、愛良は思いの外すぐに立ち上がり、パンプスのストラップをはずした。転んだのか、足首に泥がついている。

「途中で寝るなよ」

「へーき」

 愛良が洗面所に消えるのを見送り、シャワーの音が聞こえてくるのを確かめてから自分の部屋に戻る。たいてい酔いをさましてから帰ってくるのに、どうしたのだろう。

 漫画を読んでいると、五分も経たずに廊下につながるドアが開いた。ノックしろよ、と文句を言おうと振り返ると、愛良は裸だった。肩にバスタオルはかけているが、髪も体も明らかに拭いていない。ぎょっとして「ちょっと……」と声をかけたが、愛良はフローリングを濡らしながら歩いてきて、そのまま私のベッドに転がった。

「ちょっと!」

 愛良は枕に額をうずめて答えない。バスタオルの肩をゆすると、愛良は長い髪の間からこちらを見て、「酔っぱらっちゃったあ」とくすくす笑った。髪は洗っていないのだろう、まだ煙のにおいがする。

「……し、知ってる」

「うふふ」

「うふふじゃないよ。濡れる。拭きなさい」

 愛良は再び枕に顔を戻して、くぐもった声で「なーんにもしたくない!」と叫んだ。あっけにとられる私を置いて、そのまま寝息を立て始める。白いふくらはぎからまだお湯がしたたっていた。

「いや起きて。困るから。ねえ」

 肩を揺すっても頭を小突いても、愛良は起きようとしない。せめて自分の部屋で寝てくれ、と説得に入ってみたが、寝息は徐々に穏やかになり、本当に寝入ってしまったのが分かった。

 私はしばらくぼんやりとその背中を見ていたが、やがてそのバスタオルを取った。白いなめらかな背中があらわになる。すこしためらったあと、背中から腕へ、腰から脚へタオルを滑らせる。愛良はされるがままに穏やかな呼吸を続けていた。後ろ半身の水滴をあらかた取って、肩と腰に手をかけてひっくり返そうとする。細い体なのに思ったより難しく、おそるおそる掴んでいた手に力を込めて、ほとんど体当たりするように無理やり仰向けにさせた。きれいな形に整えられた眉がひそめられ、枕の影に顔を隠そうとする。

 少年のような細い手足だ。白く、傷ひとつなく、まっすぐに長い。私は内心で自分の裸と比べた。弛みなくたいらな腹、小さなとがった乳房を見ていると、同じ人間とは思われない。私の不格好に大きい乳房をちぎってつけてやりたいくらいだ。

 自分と同じ一揃いの内臓が入っているとは信じられないくらい薄い胴を拭きながら、私は愛良の服のことを考えた。

 愛良はつねにスカートを履いている。丈はさまざまだが、たいていストッキングもタイツも履かない。履くときもあるが、多分八十デニール以下だろう、肌の色を必ず透けさせる。服の色は白かパステルカラー、多分茶色や紺色の服は一枚も持っていない。ジーンズも持っていないと思う。

 こんなきれいな手足を持っていたら、と私は思わずため息をついた。私なら細いジーンズを履く。たっぷりしたニットから細い手首をのぞかせる。とろみのある白いシャツを着て、長い首を見せるのもいい。タイトなTシャツを着るだけでもさまになるだろう。男の子みたいな大きいジャケットもきっと似合う。それなのに、愛良が着るのはいつも、大学で石を投げれば当たるような、無難で善良でかわいらしい服だけだ。

 裸の愛良は、いつものそんな姿とまるで違って見えた。肉のつかない手足が美しい、別の生き物のようだ。それもこの世にいない生き物、たとえば新種の蜘蛛のような。

 最後に首のあたりをぬぐってやると、愛良は薄く目を開けた。

「起きて、自分の部屋で寝て」

「やだ」

「……じゃあ化粧落としなよ。明日肌荒れで騒ぐよ」

「いいの、もう」

 マスカラを塗ったままの目を閉じて、愛良は深呼吸するように呟いた。

「なんにもしないの。早紀ちゃんと同じにするの。もう肌のこと考えたり、ダイエットしたりしないの。決めたの」

 その声が思いの外さみしそうだったので、私はその顔を見つめた。眉のきれいなカーブ。そういえばこの子の、眉毛のないところを見たことがない。

「メイクも落とさないし、化粧水も塗らないの」

「……化粧水くらい塗るよ」

「サボってるくせに」

 時計を見ると午前一時を回ったところだった。愛良は体を半回転させながら器用に布団にくるまり、私に背を向けた。

「だから寝ないで。自分の部屋で寝て」

「人のベッドってどうしてこんなに気持ちいいのかなあ。人の寝床を奪ってる罪悪感がこう、スパイスになるのかなあ」

「おまえの性格が悪いからだよ!」

 愛良はのびのびとその細い手足を伸ばしてから、布団にくるまったまま壁際に移動した。スペースを空けてやった、という態度だ。私は電気を消し、愛良を力一杯引っ張って逆側の端に移動させてから、空いたところに寝転がった。足元に寄せてあった毛布にくるまって、「おやすみ」と声をかける。返事がないので、さらにぶつかってベッドから蹴落としてやった。悲鳴ひとつ上げずに、またベッドによじ登ってくる。

「あのさ」

「なに?」

 愛良の声は蹴落とされたばかりとは思えないくらい眠たそうだ。ちゃんと聞こえていないかもしれないな、と思いながら、私は「化粧するのやめるなら、私の服貸してあげるよ」と囁いた。しばらく返事はなかった。私が狭いスペースに慣れてうとうとしはじめた頃に、愛良の手が伸びてきて私の頭をくしゃっと撫でて、そのあとずっと、その手は私のそばにあった。

 翌朝目がさめると、愛良はいなかった。洗面所を除くと、背中を丸めて鏡を見ている。「おはよ」と声をかけると、愛良は真顔でくるりと振り返った。その顔が真っ白だったので「うわ」と思わず声を上げる。シートマスクを貼った顔は、苦虫を噛んだような、という形容がぴったりくる表情だった。

「肌荒れが」

「はい?」

「肌荒れがすごい。化粧落とさなかったから」

 そうだろうよ。私が呆れて見ていると、愛良は不機嫌そうに大きな足音を立てながら洗面所を出て、自分の部屋に入っていった。ドアがばたんと閉まる。

「……やめるんじゃなかったのか」

 思わず呟いたが、まあ、そんな気はしていた。結局この子の眉毛のない顔は見られてないな、と思いながら、私は掛け布団のカバーを外して、すこしにおいをかいでみた。生乾きになったかもしれないと思ったが、乾いた布の粉っぽさのほか、何のにおいもしなかった。



おふとんで寝る。うつくしい蜘蛛。

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