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高野文子「奥村さんのお茄子」の話

『棒がいっぽん』高野文子より「奥村さんのお茄子」の話をする。

一応ネタバレしない感じに書きましたが、そのぶん未読の方には何が何やら分からないかもしれない。とにかく読んでください。たのむ。これはアフィリエイトではありません。

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

さて、昨日食べたものを覚えていますか。私は手巻き寿司。お麩とわかめのお吸い物、茄子の揚げ浸し。お昼はカップ焼きそば。家族の冷やし中華を作ったら、薄焼き卵が綺麗にできたんだった。朝ごはん?えーと、ホットケーキかな。ヨーグルトも食べたかも。じゃあ、一昨日の晩ご飯は?……ええと、油淋鶏。それから……副菜はなんだっけ。肉じゃがかな。お昼ご飯?お昼ご飯は……ええと……えっとね……あ、そうだ、サンドイッチ!朝ごはんは、なんか、パン!

じゃあ、二十五年前のお昼ごはんは?

この漫画は、こう聞かれるところから始まる。

「一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」

主人公、奥村さんにこう聞いてきたのは、遠久田と名乗る謎の女。「とっても遠くから来ました」という彼女は、彼女の先輩の汚名を晴らすため、25年前、19歳のころの奥村さんの、6月6日のお昼ごはんのおかずを聞きにくる。「茄子」を中心に、物語は思わぬ方向へ転がりだす。ホラーにしてSF、シュールにしてあたたかい。傑作と言ってまちがいないでしょう。

25年前、私は生まれてないので適当に20年前と置き換えてみます。1996年6月6日。そんな日、ほんとうに実在したんでしょうか。ウィキペディアを見ても、たいしたことは起こらなかったようですね。1968年6月6日はどうでしょうか。あ、ロバート・ケネディが暗殺された日とのこと。でもこれは、19歳の奥村さんにはなにも関係ないようです。

あー今日なんにもしなかったな、という日がありますよね(私にはとてもよくあります)。あるいは、会社に行って仕事をして、定時には終わらなかったけどたいした残業もしないですんで、まあまあかなって帰れた日。久しぶりのデートも大事な会議も、心浮き立つ出来事も気持ちの沈む出来事もなく、ただ過ぎていった日。

そういう日も、私たちはなにかを食べている。

奥村さんは1968年6月6日について、呆然とこう独白する。

「俺……なんか食ってんだ……」

1968年6月6日は、奥村さんの人生で、なくてはならない日ではない。この日でなくても彼は試験に合格しただろう、バイクも得ただろう、食堂の夫婦と仲良くしただろう。なんの日でもない、6月6日。

けれど、そういう日を積み重ねたその上に、私たちは立っている。思い出せない、無数の(「漬け茄子なんて百個は入ってんだよーーっ」)漬け茄子の上に。

すべてを告白したあとの遠久田は、つぶやくように言う。

「楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も 悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も どっちも六月六日の続きなんですものね」

「ほとんど覚えてないような、あの茄子の その後の話なんですもんね」

物語のショックからさめ、食べ物から視線をはずすと、さりげなく、しかし執拗に書き込まれているのは、生活のディティールだ。それは最初の一ページから最後の一ページまで明らかだ。特に一ページ目は圧巻だ。カメラは蕎麦屋の前にいる。横長のコマが進むと、カメラも進み、蕎麦屋の自動ドアが開いて店内へ。テーブル席の奥の座敷、背中合わせに座る二人が現れる。そして遠久田のセリフ。「あの ちょっとお尋ねしたいんですが 一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」この数コマの間に、はしゃぐ子供、ブビビビビと音を立てながら過ぎるスクーター、老人の杖、不機嫌そうに財布をしまう女、ブーンと音を立てる蕎麦屋の扉、隣の建物の看板、などが緻密に、しかし簡素な線で描かれる。

日常のディティールは瞬時に消えていく。私が一昨々日の晩ご飯を思い出せないように、世界は現れては消え、同じことを繰り返し、やがて完全に失われる。それどころか、私たちの観測していないところで、バッタは跳ね、捨てられたカップは道端に佇み、炊飯器は音を立てる。今この瞬間にも、なにかが起こっている。見えないところで、あるいは見えるところで、無数に。

私たちが積み重ねてきたあの日、積み重ねていくだろうその地層、そこに置き去りにしてきた食べ物、生活、言葉。世界は私が想像するより何億倍も分厚いということ、そしてそこに世界はたしかにあったということを、私たちはこんなふうに思い知らされる。