好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】猫のいる生活のこと

10時にお風呂に入る。

わたしはお風呂に入る前の体重計、無駄毛チェックを省いて素早くお風呂に入り、ほとんど湯船に浸からずに体と頭を洗った。ここのところ続けていたボディスクラブももちろん省略して、手早く体を拭く。化粧水をつける時間はまだあるが、結局しないことにした。ドライヤーもせず電動歯ブラシのスイッチを入れると、洗面所に入ってきた母が「あれ、もう歯磨いてる」と不思議そうな顔をした。「んー」「もう寝るの?」「んーん」「そう?」「んー」「お弁当箱出しといてよ」「んー」

走って部屋に行き、お弁当箱を出してシンクに置く。矢崎くんも、毎日お母さんにお弁当箱出しなさいって言われてるのかな。これで10時20分。

さてここからが問題だ。私はメモを開いて絶望的な気分になった。10時20分から11時まで、ストレッチと筋トレ。私は絨毯に座り込んで、とりあえず開脚してみた。90度をすこし越えるほどしか開かないが、無理やり体を前に倒してみる。膝の裏がみりみりと音を立てるようだ。足を揃えてまた腕を伸ばすが、つま先に届くどころか、腰を立てるだけで膝が曲がった。筋トレなんて、腕立て伏せくらいしか思い浮かばない。3回ほどやってみたが、すぐに体が持ち上がらなくなった。じゅうたんにひたいをぐりぐり押しつけて、これを、毎日、とつぶやく。

電話してみようか、と思ったが、すぐ首を振った。それじゃ、彼女から電話が来た日の矢崎くん、になってしまう。

矢崎くんとは、付き合って2ヶ月になる。文化祭で一緒の係をやるうちに、なんとなく付き合うことになって、それなりに仲良く過ごしていたが、わたしはどうにも矢崎くんのことが分からなかった。矢崎くんがというか、男の子がふだん何を考えて、何をして暮らしているのか、さっぱり想像がつかなかったのだ。しつこくしつこく聞き出してメモしたのは、10時にお風呂に入ってから12時に寝るまでの、矢崎くんのスケジュールだった。

だいたいなんでお風呂のあとに筋トレなんだろう?もう一回汗をかいてどうするんだろう?書いてないけどもう一回シャワー浴びるのかな?もしかして汗かいたまま寝てるのかな?わたしは顔をしかめて、その想像を振り払うためにもう一度だけ、腕立てをした。化粧水を塗っていない顔がすこし乾いてきた。

11時になったら水を飲んで休憩。お茶は飲まないらしい。タオルでしっかり汗を拭いて、ミネラルウォーターを飲む。矢崎くんもしっかり汗を拭いてる、でなければシャワーを浴びている、はず、と自分に言い聞かせながら、お風呂と筋トレで出て行った水分を補給する。体の奥の方がほぐれる感じがして、喉が渇いていたんだな、と分かる。飲んでから喉の渇きに気づくこの感じを、矢崎くんは毎日味わっているのかな、と、わたしは思う。

部屋に戻って、矢崎くんが毎週買っているという漫画雑誌を開いてみた。全部途中からなのでさっぱり分からない。読みやすそうな四コマを選んで読む。ふつうに面白いけれど、お金を出して買うほどではない。矢崎くんの好きなタイトルのものは主人公の顔が見開きで切れていてちょっと笑ってしまった。矢崎くんはそのまま他の漫画を読み返したり、宿題があったら嫌々やったりしているという。0時を過ぎると親に怒られるので、5分前には電気を消しているのだそうだ。わたしの親は何時まで起きていても特になにも言わないので、わたしも思う存分手持ちの漫画を読み、嫌々英語の予習をやった。筋トレをしている間と違って、時間はすぐ過ぎる。時計が23:55という表示になるのを見届けて、わたしはうんと伸びをした。布団に入って、電気を消す。毎日おやすみのラインを送っているのはわたしだったから、今日も送ろうか迷ったけれど、最後まで矢崎くんの一日を過ごしてみたかったのでやめた。でもそれなら、矢崎くんからラインが来たらいいのに。

仰向けになって目を瞑ったとたん、顔の横に置いた携帯が震えた。飛び起きて携帯をつかみ、「もしもし!」と早口で電話に出る。矢崎くんが「めっちゃ速い、出るの」と笑うので、私も笑った。矢崎くんのほうから電話をくれるのはほとんど初めてだった。

「どうだった?俺の生活」

「うーん、なんか、よくわかんなかった」

「筋トレしたの?」

「したよ、無理だったけど」

「俺もまあまあサボってる」

「えー!」

「内緒な」

男の子なのにくすくす笑う、この声が好きなんだよな、とわたしは思いながら、「ねえ、歯磨くの早くない?お風呂上がったあとアイス食べたりしないの?」と聞いてみる。しない、という明快な答えが返ってくる。「晩御飯のあと食べるなら晩御飯倍食べたほうがいい」というが、アイスと晩御飯は別物、という説明がうまく伝わらない。好きな人と一緒に住んだら、夜中に手を繋いでアイスを買いに行くのが夢だったので、すこし残念だ。

突然、矢崎くんの声にノイズが混ざる。ねころがった矢崎くんが体勢を変えたのかな、と思うけれど、「お、どしたどした」と矢崎くんが甘い声を出すので違うとわかる。なに?と尋ねると、「ん?猫が来た」と矢崎くんは簡単に答える。

「猫?」

「猫。最近ドア開けるんだよな」

「飼ってるの?」

「うん?うん。飼ってる」

「前から?」

「子供のころから」

わたしは絶句し、この人のこと、ぜんぜん分からない、と思う。毎日筋トレするのより、晩御飯のあとアイス食べないのより、だんぜん分からない。

「……知らなかった」

「あ、そう?」

「今度、写真見せて」

「いいよ。撮っとく」

撮っとく!わたしはあとずさるような気持ちで、じゃ、そろそろ、寝よかな、おやすみ、と言って電話を切った。

ふかく、ため息をつく。

飼ってる猫の写真を撮らない人と付き合ってだいじょうぶかなー、とわたしは顔を覆う。筋トレに猫がすりよってくる生活の中で、どうやったら猫を可愛がらずにいられるんだろう。いや可愛がってるんだろうけど、なんでいままで見せてくれなかったんだろう。

矢崎くん、たぶんぜったい、わたしのこと友達に自慢してないな。

その確信があまりにも強く、別れよ、と思うけれど、いやそれはさすがに意味がわからなさすぎ、と思い直す。これくらいで嫌いになってどうする。いや、でも、猫の写真を撮らない……。

わたしはひっくりかえって枕に顔を埋める。だいじょうぶかな。男の子って、わからない。お風呂も歯磨きも筋トレも漫画も、ぜんぜん意味が違うじゃないか。とりあえず明日は、筋トレはしないだろう。