好きなことの話

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【SS】月影

twitterでお題を募集したら長文が来たので続きを書きました。「----------」から「----------」までがお題部分です。

 

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櫓の下には井戸が拵えてあって、それは大抵木蓋で閉じられているものなのだが、時折町人の誰かが閉め忘れることがあるらしく、こうして見張の夜番で櫓に登り、月が高く昇るころに見下ろすと、澄明な水を湛えた水面に見事な月が浮かぶのを見ることがある。
表面を叩いてもいない急造の櫓の上で毛羽立った木に座り込み、町を見やる。夜分であって静まり返ってはいるが、しかしまだ寝付くには早いのか、細く灯りの漏れる家が多い。立って反対側の森へ視線を移せば稜線のなだらかな波形と、渓谷部を北へ伸びる交易路の波形とが放射するように広がっている。
いくつかの息を吐いて、晴れ晴れとした夜空をしばし眺める。もう更けるかのような明るさが大地を照らし、空気は海と同じ深さを感じさせる。
木々の隙間に目を凝らせば葉の動きまで見つけられることに気がつくと、湯のような安堵が腰のあたりまで湧いて出てくる。こう明るければ、敵も夜襲などはかけないだろう。
また梯子に足を投げ出して、井戸の底に浮いた月を見る。先ほどからやや横に位置を変えた月の更に横に、やはり月のように丸い顔がこちらをじっと見上げているのだった。

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 それが幻覚なのはとうの昔にわかっていた。こうして櫓の上に座っていると、その少年は必ずそこにいてこちらを見上げているのだが、そんな顔の少年はこの町のどこにもいない。丸い頬は焼きたてのパンに似てやわらかそうで、腕や足も同様にふっくらとしている。低い鼻は上を向いていて鼻孔が目立ち、目は肉に押されて細く垂れている。それは少年のころの彼自身だった。
 初めての不寝番のときは闇夜だった、と彼は思い出す。町の明かりが消えるころには彼はほとんどパニックだった。櫓が風で揺れているのか、自分の心臓が暴れているのか、それても敵が攻めてきたのかの区別もつかず、膝を抱えてぶるぶる震えているときに、その少年は現れた。井戸のそばをひょこひょこと歩く影を見てすわ敵の斥候かと立ち上がると、櫓のきしむ音にその影は振り返り、手を振ってみせた。その丸いシルエット、小さすぎる身長は、どう見ても兵士のそれではない。兵士どころか、あれはもしや、と彼が息をのんで見守る中で、影は闇に溶けるように消えていった。
 以来、彼が見張りに立つたび、その少年は井戸のそばでこちらを見上げている。彼は井戸に、それから少年に、町の家々に視線を移し、自分の手をかざした。節くれだった指にはあちこちにたこができて、立派な職人のそれだ。とてもあの丸々とした少年と自分とが同一人物だとは思うまい。今年の春、戦争が始まると同時に生まれた息子は自分に似ていなくて、彼はそのときひそかに安堵したものだ。
 そうだよね、と耳元で声がして彼は飛び上がった。月のように丸い顔が、月明かりに照らされてつやつやと光っている。純朴そうな瞳が彼を見据えて、そうだよね、あの子は僕と全然似ていない、とうなずく。彼は肋骨を叩く心臓を抑えて、ああそうだ、と彼は震える声を漏らした。幻覚が櫓に上がってきたのは初めてだった。
 幻覚は物珍しそうに町や森を見渡している。町の明かりは、いつの間にかずいぶん少なくなっていた。強くなってきた風にきしむ櫓の音に紛れて、少年は確かにつぶやいた。あっちから来るよ。
 やめろ、と彼は大声を出した。明るい空間は声をすぐ吸い取って、音は地上まで届かずに消えた。幻覚は不思議そうに首をかしげて、同じ言葉を繰り返す。あっちから来るよ。じきに来るよ。彼はほとんど泣きたいような気持で耳をふさいで体を折り曲げた。
 ほんのいたずらだった。いたずらというほどの意図があったわけでもない。ただなんとなく、本当になんとなく、少年のころの彼は言ってみたのだった。あっちから来るよ。意味ありげな顔をして、適当な方向を指さした。その先に何があるのか、そのころの彼は知らなかった。ちょうど前の週にその先にある町が盗賊たちに襲われて、大人たちがみな不安がっていることも。この子は何かを見たのかもしれない。そういえばこの子の祖母は巫女だった、直感があるんじゃないか。いやそもそも何かあるかはともかく、隣町のことは本当なのだから、警戒するに越したことはない。大人たちは見張りを立てることにして、そして数日後の夜、気が立った見張りたちと酔っ払いとがもみ合いになり、もみ合いではすまない騒ぎになり、一人が鍬を腹に突き立てられ、一人が壁に頭をつぶされて死んだ。仲間割れがあっちから来たのだった。
 彼はしばらくのあいだ、何が起こったのかよく知らずにいた。嘘をついたこともよくわかってはいなくて、実際に何かを見たような気がしていた。木の陰に盗賊の服の裾を見たような、不吉な黒い影が地面に渦巻くのを見たような。二人は知らない人間だったし、葬儀からは遠ざけられていたから、知る機会がなかったのだ。盗賊はついに来なかった。彼はつまり、一度目で狼が来てしまった狼少年だった。
 自分が引き起こしたのは何だったのか知るころ、丸い体型はだんだんと細くなり、筋骨隆々とはいかないが十分に立派な体躯の青年になった。彼の過剰なまでの慎重さは誰もが笑い、冗談の種にしたが、彼の本心に気づくものはいなかった。彼はこう思っていたのだ、俺が見るものはすべて幻かもしれない、すべての不吉な徴は、本当でも嘘でもあるのだと。
 少年の彼は櫓から身を乗り出して森のほうを見ている。ねえ、あっちを見てみなよ、と少年は言う。彼は逆らう気力もなく顔を上げて、心臓が止まるほど強く脈打つのを感じた。こんなに明るい月の夜に、敵が来るはずがない。立ち上がって、相手からもこちらが見えることを思い出してまたしゃがむ。木の陰、葉の間に、確かに人間がいる。長物は持っていないが、ゆるいズボンの形、頭に巻いた布の色は、確かに敵兵のものだ。
 彼はとっさに鉦のばちをつかんだ。訓練で何度も繰り返した、五回打って一息休み、五回打って一息休む、それが敵兵発見の合図だった。ばちが鉦をたたく響きを掌にはっきり感じたのに、鉦は鳴っていなかった。彼の手は震えて、鉦を叩くどころかばちをしっかり持つこともままならない。焦るうちに少年が彼の顔を下から覗き込んできた。ねえ、僕とあの子は似ていないね。なんの話だ。そこをどけ。
 あの子のことだよ、あの子はかわいいねえ、あの子が生まれたときのきみの顔ったらなかったよ。そこでようやく彼は、幻影が言うあの子が誰なのか理解した。春に生まれた息子のことだ。まだ赤ん坊で、顔立ちなどいくらでも変わるだろうが、しかし息子は確かに、彼には似てなかった。そして、妻にも。
 似てないよね、ぜんぜん、と幻影は続ける。何が言いたい、と彼は震える手で敵兵を指した。そこをどけ。おれは早く、詰所にいる同僚たちにこれを知らせなければならない。幻影は気にする様子もなく、かわいらしく小首をかしげて見せた。わかっているくせに。何を? 僕が言いたいことをさ。
 わかっていた。すべての不吉な予感は、本当でも嘘でもある。彼がその予感を感じたのは夏の終わり、部屋の戸を開けようとした瞬間だった。開けるな、と頭の後ろで何かが叫んだが、彼の手のほうが早かった。戸の先には妻と隣人がいて、二人は世間話をするには不要なほど顔を近づけあっていた。彼に気づくないなや、二人の距離はぱしんと離れ、おかえりなさい果物をいただいたんですよ、と言った妻に、彼はまばたきを繰り返すことしかできなかった。それから、ああ、ただいま、どうもありがとうございます、と返してしまったとき、彼は今見た光景が、本当なのか自分の妄想なのかが、永遠にわからなくなってしまったのだ。あの日見たと思った不吉な黒い影、盗賊の服の裾のように。
 あの敵兵もおれの妄想だって言いたいのか。彼はもはや、そちらに顔を向けることもできなくなっていた。そこに敵兵がいることもいないことも恐ろしかった。幻影は何も言わずに彼の顔を覗き込んでいる。彼は目を閉じてめまいに身を任せた。息子の顔、井戸に映る月影、少年のむちむちした手首、母の顔、隣人の顔、仕事道具、手のたこ、敵兵の頭布、鉦の響きが手を打つ感触。すべての不吉な予感。彼は突然顔を上げて立ち上がった。あの子が生まれた時のおれの顔ったらなかっただろう。だって本当に、本当にこころの底から嬉しかったんだ。彼はばちを振り上げ、五度鉦を叩いた。あれも幻覚だとして、ほうっておいていいわけがあるだろうか。彼は鉦が敵兵自身であるかのように全力で殴りつけた。俺は息子を守りたい、たとえ俺の子ではなかったとしても、俺の血をひいてふたたび狼を呼ぶとしても。
 町の明かりが一つ二つと増えていく。詰所からたいまつをもった男が飛び出してくるのが見えた。彼は同僚に向かって敵兵がいる方向を指しながら、力の限り吠えた。少年はいつの間にか消えていた。同僚が敵兵を追って駆け出していく背中を見ながら、彼は手のしびれを感じてばちを取り落とした。荒い息をつきながら座り込み、顔を覆う。指の隙間から、別の男がこちらに走ってくるのが見えて、彼は軽く手を振った。ふと井戸に目をやると、水面の月は跡形もなく消え去っていた。