好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】ねどこ-2 楽園

 死後の世界が発見されて五年になる。
 そこに持ち込めるものは少ない。電子機器や、金属製のもの、革製品、それから薬品のたぐいは持ち込みを禁止されている。それぞれ、なにやら問題があるのだそうだ。だから私は、恋人にもらった時計を何年ぶりかに外してロッカーにいれ、思い出の写真を何枚かプリントアウトして懐に入れてやってきた。
 生前の恋人と決めておいた待ち合わせ場所に転送してもらうと、暖かく湿った空気が肺に流れ込んできた。死後の世界というのは空気も違うものだな、と思いながら目を開けると、それは誤解なのが分かった。暗い空間に、たくさんの観葉植物が置いてあるのだ。磨き上げられたバーカウンターの横に、あるいは奥に、様々な色やかたちの植物が身を寄せ合うように配置され、枝葉を伸ばしている。植物も呼吸をします、という理科の教科書の一文を思い出した。木の鉢をビニールに包み一晩置いて、二酸化炭素の濃度の変化を測る。その二枚並んだ写真のうち、一夜明けたほうのビニール袋は白く結露していた。私たち同様、植物の吐く息は水分をたっぷり含んでいる。そのせいか、人気はないのに、しんとした感じはしない。
 バーカウンターのほうに歩いて行くと、カウンターの最も端の席に、老女が座っているのが見えた。老女は少し背中を曲げて眠り込んでいる。その前にはコーヒーポットが静かに湯気を立てていた。
 ポットを手にとってカップに注ぐと、コーヒーの香りが漂っていた植物の匂いを一瞬かき消した。その香りに、おや、と老女が目を覚ます。私からカップを受け取って、老女は私の目の奥を覗き込んだ。灰色の目だった。
「ここではコーヒーが冷めないのよ。知っていた?」
 いいえ、と答えながら、私はもう一方のカップにコーヒーを注いだ。コーヒーは確かに淹れたてのように熱く、しかしポットやコンロの類は周りには見当たらなかった。その代わり、ありとあらゆるものが老女のそばに寄り添っていた。真新しいリカちゃん人形、パンプス、使い捨てカメラ、猫の置物、古いリュックサック、ペンネの詰まった瓶、ボタン、傘、スマートフォンのケース。ひとつもほこりをかぶっていない。
「――に会いにきたんでしょう?」
 老女は私の恋人の名前を言った。はい、と言うと、老女は何度か頷いた。「そうだと思った。あの子、もうじき来るわ。遅刻なんて、いけないわね、限られているんでしょう? ここにいられる時間は」
そうですね、と時計を見ようとして、手首が軽いのを思い出した。仕方なく、「半日と言われています。でも、さっき来たばかりですから」と手を振る。
「砂糖は?」
「けっこうです。ありがとう」
「あなた、気にしないのね」
 首をかしげると、老女は小さな声で笑った。「よもつへぐいってあるでしょう? あれを気にする人が多いのよ、コーヒー勧めても飲まなかったり、飲んでからあっと言ったり」
「ああ……大丈夫だと証明されていますからね」
「証明されていても、こんなところで、なににもならないと思う人もまあ、いるわね」
 老女の喋り方には奇妙な抑揚があった。句読点が不思議なところで挟まって、息を吸うタイミングがずれる。私はコーヒーをすすり、このコーヒーは持ち帰れるのかなと思った。持ち込みだけではなく、持ち帰りも規制が厳しいのだ。胃の中まで調べられるかもしれない。
 老女はそれ以上何も言わず、手近にあったコーヒーミルを手にとって、矯めつ眇めつ眺めはじめた。それを見るともなしに見ながら、明日の会社のことを考える。あの乾燥した明るい部屋。こことは大違いだ。私は身をひねって光源を探したが、影が折り重なって光の形を成すだけで、電気のたぐいは見当たらなかった。
「あなたは……おいくつ?」
 老女がふいに口を開いた。死後の世界にあってさえ、沈黙に耐えかねて世間話をしようとする姿がすこしおかしかった。私が歳を答えると、老女はコーヒーミルのハンドルをゆっくり一回転させて、「こういうものは、知らないわね。あなたのような歳の人は」とつぶやいた。
「いや、そんなことは。それのほうがよく挽けるという人もいますし」
「そう? そういえば、使い捨てカメラ、あれもね、若い人が面白がるって言うわね。何が撮れるかわからないから」
「使い捨てカメラは……使ったことないです」
 存在は知っていた。緑色につやつやと光るパッケージ。老女はそれを手に取って、上部の穴をちらと覗き込み、「あと2枚だわ」とつぶやきながらダイヤルをがりがりと回した。その動作を行ったことのない私の親指に、その感触がはっきりと蘇った。
「生きていたとき、生活も旅行も愛していたわ。コーヒーを冷める前に飲み干すのも、換気扇を掃除するのも、飛行機の切符を取るのも、知らない土地の駅のホームで夕日の写真を撮るのも好きだった。でも」
 老女は安っぽい印刷の踊る表面をなぞりながら呟いた。
「ここには生活はないのね。旅行もない。これ、どうやって現像するか知っている? コンビニに持って行くのよ、でもここにはコンビニはないから」
 老女は意外なほど素早い動作でこちらにレンズを向けた。私はなぜか知っている、その小さい窓から覗き込む歪んだ景色。小さすぎて片目をつぶらないと焦点が合わない。その小さな窓、プラスチックのレンズ越しに私と老女の視線が絡み合い、大きな音でシャッターが落ちた。私の驚きがフィルムに残された。
「これはね、撮っても、見られないの」
 私は突然コーヒーカップを置いた。暖かい空気のかたまりが私の肩と膝にそっとおおいかぶさり、たちまち全身へとその手を伸ばした。最初から空気は暖かったのに。植物の吐く息に、空気は暖かく湿って、いや、これは、眠気だ。眠気は私の内側から来たものなのに、どうして体を重くするのだろう?
 老女はわたしに使い捨てカメラを手渡した。私はがりがりとダイヤルを回し、バーカウンターに肘をついてカメラを顔の前にかざした。体重をあずけた右脇腹に、カウンターがすこしくいこむ。体重はどんどんそちらのほうへなだれていく。
 左目をつぶると、老女が二杯目のコーヒーを注いでいる姿が歪んで見えた。恋人はまだ来ない。生活も旅行も愛していたのは、私の恋人ではなかったか?
 シャッターボタンは思いの外重い手触りでばしんと落ちた。これっきり、という音がした。


楽園で寝る。最後の使い捨てカメラ。
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