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好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】クミンシード

 私たちはここで別れ話をするだろう。
 壁一面に作りつけられた棚には、ぴったりとスパイスの瓶が並べられている。フェイクかしらと近づいてみたら、ラベルも中身もひとつひとつ違っていて驚いた。客席は暗めの間接照明なのに対して、厨房のほうは白々と明るい。大柄な男性に皿を手渡されたあなたが、こちらの暗がりへと歩いてきた。
「はい」
「ありがとう」
 私は微笑む。幾重にも重なり混ざり合ったスパイスの香りが胃をひと撫でした。それからバターの香り。黄色いバターの塗られたナンは皿からはみ出すほど大きい。
 あなたは一度厨房のほうに戻って、白い飲み物が入ったグラスを二つ持ってきた。今度は机に置くなり私の向かいに座る。あなたの腕は、身長にくらべてとても長い。ときどき、その長さを持て余しているように見える。
「ラッシーは店長のサービス。おいしいよ」
「ラッシー? マンゴーのやつ?」
「マンゴーのほうがよかった? でも、うちのはただのラッシーのほうがおいしいよ。カレーに合う」
 言って、あなたはストローに口をつける。「食べないの?」と聞くと、あなたは笑って「さっき食べた」と言った。私はうなずいてナンをちぎる。
 私は一目でこの店が気に入ってしまっていた。あなたが高校生のころから、五年以上アルバイトをしているこの店は、ほとんどあなたの一部に見える。
 いや、当然のことだが、この店の一部があなたなのだ。私は心の底で考えを改めた。あなたがこの店を気に入り、長く居る間に、店はあなたを取り込み、あなたは店の一部を成すことになった。隣り合って生えた木と蔓草が、絡まりあって互いの区別がつかなくなるように。
 付き合いだして、まだ間がない。その段階の男女がそうであるように、私たちはお互いの愛情の終わりを全く想像できないでいた。どこへ行っても楽しくて、連絡が来れば嬉しかった。嫌いなところはまだ見えず、好きなところは会うたび見つかった。そうして、どこか行きたいとこある、と聞かれたとき、迷いなく「バイト先に」と答えた程度には、私たちは心を許しあっていた。
 けれど私たちはここで別れ話をするだろう。いずれ、一年後か十年後か、私がここに通い慣れ、ほかの店員に顔を覚えられ、からかわれ、やがてからかわれることもなくなって、友情すら覚えてきたころに、私たちはここで別れるだろう。そして私はこの店のことを、あなたのことを抜きにしても大好きになっていたにもかかわらず、以降来られなくなってしまう。店員たちも残念がるけれど仕方ない。そういう人たちも一人辞め、二人辞め、店員がみな入れ替わるころには、店長も私のことを忘れている。
 ナンはぱりぱりと裂けて、私の思うのと違うかたちにちぎれた。大きすぎる。さらに半分にちぎってカレーを掬い、口にいれる。辛いだけでもない、しょっぱいだけでもない、複数種類の味が同時にして、私は少しの感嘆とともにカレー皿を見下ろす。指にこぼれたのを舐めとると、あなたがそれをじっと見ているのがわかった。
 あのころはちょっとした仕草もセクシーに見えたなとあなたは思う。指についたカレーを舐めとる仕草とか、手をはたいて粉砂糖を落とすところとか、スニーカーの紐を結びなおすのに、スカートを折りたたんで座る姿とか、焼き鳥屋のカウンターの中を覗こうとするときとか。見飽きることがなかった。それが、今はもう遠い、とあなたは思う。ベッドの上の姿も、全然セクシーじゃない姿もよく知って、自分にとっての魅力というのは、隠れているということだったとあなたは知る。そう思ったことに、あなたは少し失望する。こんなつまらないことを考えるようになったなんて。隠れているのがセクシー? あの頃と同じようにカレーを前に顔をほころばせる恋人と、別れ話をする日になって、自分がこんな人間だということを、思い知るようになるのだ。
「おいしい?」
 あなたは、現在のあなたは、私の顔を覗き込んで、目元だけで笑う。「おいしい」と笑顔で答えながら、私は今のあなたと、将来のあなたとを重ね合わせて、静かに苦しく思っている。私はこのカレーを食べながら、あなたはこのラッシーを飲みながら、この席で、こんな夜に、別れ話をするだろう。

 そう思ってたの。
 私が言うと、あなたは私の目を見たまま、何回か瞬きをした。「それは……」と、あなたは首をこっとんと左に倒す。「たしか、2回目か、3回目のデートのときの話?」
「そう」
 あなたは手にクミンシードの瓶を持っている。このあたりで一番遅くまでやっているスーパーのスパイス売り場には、閉店を知らせる音楽が流れはじめていた。急がなくちゃ、と言っていたあなたは、私の言葉を聞いて、完全に動きを止めている。その、驚いたときの無表情が、大学生のころと変わらない。私は微笑ましくなって、あなたの手から瓶を受け取った。
「あれから何回もあの店に行って、そのたびに思ってた。ここで別れ話をするって。ねえ、引っ越してから何年?」
「七年」
「そう、じゃあ七年前か、最後にあの店に行ったときもね、そう思ってた。ここに、なんでだかここに戻ってきて、別れ話をするんだって」
 手元の籠にクミンを入れると、あなたはぎくしゃくとその籠を私の手から受けとった。レジのほうに歩いて行きながら、「それは、どうして? 俺との付き合いが不安だった?」と聞く。そうじゃないの、と私は言いながら、腹のあたりを撫でる。でも、うまく説明できないの。
 あなたはしばらく黙っていたが、指輪のはまった左手で私の肩を軽く抱き寄せ、「でもまあ、それは本当にならなかったわけだ」と明るい声で言った。「そんな風に思ってたのに、十二年何事もなく過ぎたんだから」
「何事もなく? 本当に?」
 私はわざと意地悪な声を出した。あなたは目元だけで笑って、私の肩に肩をぶつけてくる。スーパーの照明は、あの日の厨房のように白々と明るい。私も笑った。
 でも、あの店はまだある。私たちが恋の始まりのときめきのままに見つめ合った、あの暗い店がある以上、私たちはやっぱりいずれそこで、別れ話をすることになるだろう。