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「ざらざらした葛藤のメロディ」を観た話

以前短歌の関係で知り合った前田沙耶子さん(@penguin_night)という人が二人芝居をやるというので新中野まで出かけて行った。役者をやるのは初めてということで、洗練された演技、とはいかなかったけれど、少し考えることがあったので書いておく。

公園らしき場所に男女がいる。二人はどうやら元恋人同士で、男の方は音楽のため出て行った東京で浮気し放題、女もそれにやり返す形で地元の男と浮気、妊娠、結婚を決めたらしい、ということが分かってくる。「メロドラマのメロって何?」「……メロディドラマ?」「メロディドラマってなに?」といったどうでもよさそうな会話を挟みつつ、二人の会話は少しずつ熱を帯びていく。

終盤、男は初めて素直な自分の気持ちを叫ぶ。そこに力強い、歌声の入った音楽が被さり、音が大きくなり、男の声は半分ほどしか聞き取れない。音楽が止まり、女は男の言葉を少し冷やかし、ややしてからこう話し出す。「18世紀後半、ヨーロッパの舞台劇で、劇中に感情を表現したり、観客の感情を揺さぶるため、音楽を伴奏として使う手法が流行した。音楽に頼って内容が伴っていない、ということから、今は感傷的、通俗的なドラマに対する蔑称として使われている。……メロドラマの語源」「……やっぱりメロディドラマじゃん」「だね」。そして二人は別れる。

あらすじだけを追ってしまえばよくある話で、わざわざ物語にする必要があるだろうか、となってしまう。少なくとも小説でやろうと思ったら、面白くするためにはかなりの腕がいると思う。でも、演劇ならこういうやり方ができる。感情をゆさぶる場面で感情をゆさぶる音楽を流し、(意図したものかは分からないが)台詞よりも曲を押し出す。そこをぱっと切ってしまって、「メロドラマ」的な台詞を笑う。これは演劇か映画にしかできない。上手だなあ、と思った。

さて、ボカロ曲でこういうものがある。

弱音ハク】どうせお前らこんな曲が好きなんだろ?【亞北ネル】 - ニコ百 http://dic.nicovideo.jp/id/4939185

「感動した」と言うとき、私たちはほんとうに「それ」に感動しているんだろうか。脳の中に「気持ちよくなるツボ」みたいなのがあって、内容とかではなくそこをきゅっと押される→感動!みたいになってしまう、ってことはないだろうか。味の素みたいに。速いテンポの曲の転調みたいに。

「ざらざらした〜」ではそこを一旦対象化して、自分で言っちゃうことでちょっと茶化して、でもそのやり方を否定するでもなく上手に利用してまとめる、ということを成功させていたと思う。

演出ってなんなんだろう。私たちは私たちの人生を勝手に演出して、感動したとか泣いたとか、ここが人生のピークだなとか、思ってみたりするのかもしれない。ちょっと茶化しながら。

あとこれは関係ないんですけど、劇中でなにかの言葉を引用されると激しくエモい気持ちになってしまうのは何故なんでしょうね。自分で書いて自分で出演した脚本で「銀河鉄道の夜」の引用をやったことがあるんですけど、噛み噛みでだめでした。引用エモい。引用を感知すると脳の特定のツボをきゅっと押されて→エモい!になるのかもしれない。

引用エモいといえば山田詠美の『学問』は演出に引用を使ったもので、これもかなり感情を操作されます。面白いよ。以上です。