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好きなことの話

好きなことの話をします

葉ね文庫に行った話

大阪に住んでいたことがある。

といってもほんの1年前、たった3ヶ月だけだったので、住んだ、というには短い。初めての一人暮らしは、仕事をして勉強してごはんを作って食べて寝て起きているうちに過ぎていった。それなりに楽しく、それなりに寂しい毎日だった。

しかし、まあ、その日ほどつまらない日はなかった。出かけた相手とは話が合わず、行った店はどれも地元に支店があり、買ったものの満足感は低く、唯一おいしく食べたソフトクリームで胃を冷やして具合が悪くなった。ペンダントのチェーンは切れ、夜が更けても何も食べる気がせず、行こうと思っていた店はラブホの奥で諦めた。酔っ払いも私を避けて通った。わたしは生涯一度もナンパされたことがないのが自慢なのだ。

それで、葉ね文庫に寄った。

葉ね文庫は中崎町の本屋さんだ。短歌・俳句・詩の本を中心に、古本もすこし。わたしは何度かその店に行き本を買ったり、そこで紹介してもらったイベントに参加して孤独を癒したりしていた。営業日なら21:30までやっている(2016年7月現在)のもよかった。

その日はたぶん、岡野大嗣『サイレンと犀』を買ったと思う。とにかくなにかいい本を買わないとやってられない、と思ったのだ。

客はたまたま私だけ、店主の池上さんと話しこんでいるうちに、もうすぐ神奈川に帰るのだが、大阪にいるうちについにたこ焼きを食べなかった、という話になった。

池上さんは「えーっ!そんな!なんでですか!」と言って、おすすめのたこ焼き屋さんを教えてくれた。教えてくれるだけでなく、じゃあちょっと、今から食べに行きますか、と言ってくださった。閉店時間はとうに過ぎていた。

雨が降っていた。どういう経緯か忘れたが、結局小さなお好み焼き屋さんに入った。胃の痛みが心配だったが、池上さんが「私ねえ、けっこう食べるので……」というので甘えることにした。言うまでもないがわたしはよく食べる女性が好きだ。

なんの話をしたのかは、実はだいたい忘れてしまった。今日は恋人の誕生日なんですよね、という話をした覚えがある。どういう人ですか、と聞かれて、「自分の弱みを改善しようと努力を重ねた結果、高い能力と高いプライドを身につけた人」と言ったら、真顔で「分かる気がします」と言われた。分かられた。仕事の話、短歌の話、女の子の話もすこしした気がする。胃の痛みは、ねぎ焼きを食べ始めたあたりからほとんどなくなっていた。

「仕事も変わってるかもしれないし、別の人と付き合うかもしれないし、なにがあるか分からないですよ」というようなことを、池上さんは言ったと思う。入社したばかりで、恋人とも家族ともうまくいっていて、でも、そうだよな、と思った。そうだよな、と思うだけで、なにひとつ想像できはしなかったけれど、想像できないだけで、本当にそうなのだ、と、ただ思った。

お会計でわたしが財布を出すと、「出します、だいぶお姉さんなので……」と言ったのですこし笑ってしまった。正確においくつか知らないのだけれど、わたしの人生のなかで、「だいぶお姉さん」の人間と接したことはほぼないと言ってよかった。大学の先輩よりけっこう上、親よりかなり下。

あーわたし、コミュ症治っちゃったな、とその時思った。夜、予定もないのに急に飲みに行くのも、年上の女性とおしゃべりするのも、帰りが遅くなるのを誰に知らせなくてもいいのも、わたしには許されていないことだった。誰が許すって、まあ、自分が許していなかったのだ。大げさな言い方をするなら、その夜は一種のイニシエーションだった。

先日京都に旅行に行き、大阪に宿を取ったので、葉ね文庫に行った。忘れられているかもしれない……と思ったが、池上さんのほうから「お久しぶりです!」と言ってくださったので嬉しかった。葉ね文庫は本がすごく増えていて、あかるく鬱蒼としていて、よかった。

つまらないもので……新幹線のホームで買ったので……と東京ばな奈を差し出したら、池上さんは「うれしい、これ好き」と笑った。言うまでもないがわたしは甘いものが好きな女性が好きだ。

あの夜の直感は外れ、わたしは相変わらずコミュ障で、実家に暮らして恋人と仲良くやっている。

他人の作品が読みたくて、虫武一俊『羽虫群』を買った。また来ますね、と言って店を出て、フランス食堂セルクルに入りたかったがぐずぐずしているうちにラストオーダーになってしまった。やっぱりコミュ障は完治していない。深夜営業のカフェでアルデンテすぎるクリームパスタを食べた。

(大丈夫かどうかはおれが決めていく一年前の飴はにちゃにちゃ 虫武一俊)