「わたしの2/4拍子(ルンバ)」を読んだ。
ツイッターではまなかさん(@hmnk)が連投した、わたしとルンバをめぐる物語の書籍版だ。新宿眼科画廊で開催中の内田ユイさん個展(http://www.gankagarou.com/sche/2016/201604uchidayui.html)と5/5のコミティアで買える。コミティアで売り切れるのを恐れて、私は新宿まで行って買った。三丁目のカフェで読んだ。泣いた。隣のカップルが完全に不審そうにしていたので、鼻をすんすん言わせてなんとか耐えた。
どのよう話なのかについては、こちらのまとめを参照していただきたい。
わたしの2/4拍子(ルンバ) - Togetterまとめ http://togetter.com/li/958641
これをさらにパワーアップさせた感じだった。長くすることでつまらなくなることもあるなと心配していたのだけど、杞憂だった。とっても面白くて切なくて、良かったです。
わたしたちはなぜルンバが好きなのだろう。
数ヶ月前、廃棄物処理場で働いている友人が、まだ動くルンバが捨てられているのを見たという。ゴミの山の中で動く捨てルンバ。私はすでに胸をつまらせていたが、友人は「おまえ掃除機だろ、そらいけ!ってゴミの山に突っ込ませたけど、ふつうにゴーッと処理されていって笑った」と続けた。私はショックを受け、ほんとうに悲しくなってしまい、しばらく不機嫌だった。友人はなぜ私が不機嫌になったのか分からず、不審そうにしていた。
「ルンバかわいいじゃん……」
「えっ、べつに」
「ルンバはかわいいでしょ」
「ルンバかわいいと思ったことない」
「ルンバかわいいと思ったことない!? 人間の心がないの!?」
「にん……あるよ! 心は!」
「えっ、待って待って、R2-D2はかわいいよね?」
「R2-D2はかわいいけどルンバはべつに、特別なにか感じたことない」
「人非人!!」
「ええ!?」
本当か確かめようはないが、サポートに「ルンバを修理してくれ」という意味で「直してあげて」と言うひとが多いという話を聞く。
家電でありながら、自分で判断して動く。ものを言わずに淡々と働きつつも、その動きがコミカルでかわいらしい。たまに段差にひっかかる姿に、おっちょこちょいさを感じる。わたしたちはルンバの働く姿にーー働く、という言葉がすでにしめしているようにーーただの家電の動き以上のものを見出している。
個人的なことを言えば、私は機械に感情移入しすぎる。高校のとき、いつも持ち歩いていた電子辞書(名前はイトイくん)を壊してしまったときは一晩泣き通した。部室にあった音響機器(名前はポンちゃん)の調子が悪い時は、音響担当と「君ならできる!大丈夫だよ、できるよ、がんばって!」と励ました。家にある扇風機の名前は「キャサリン」と「若林」だ。
ルンバのーールンバにかぎらず機械たちの動きは、プログラミングされた、あるいは設計されたとおりの動きにすぎず、そこに意思は(おそらく)ない(とされている)。わたしたちはそこに意思を見出してーー言い換えれば、意思を創造している。そう見えることとそうあることを混同して、愛を感じている。
でも、そもそも、他人がほんとうに意思を持っているかなんて分からない。人格だって現象だ。だとすれば、ルンバの意思を読み取って、愛しく思ったり悲しくなったりすることに、どんな不合理性があるだろう。
ちなみに我が家にルンバはいない。いつか迎えたいと思っていたのだが、「わたしとルンバ」を読んだら自信がなくなってしまった。いつか、ルンバとのたのしい暮らしが、いつかくる別れよりずっと大きいとこころから思えたら、家に迎えたいと思う。
この話とはまったく関係ないのですが、明日は文学フリマです。かわいい本になりました。よろしくお願いしますね。