好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】猫のいる生活のこと

10時にお風呂に入る。

わたしはお風呂に入る前の体重計、無駄毛チェックを省いて素早くお風呂に入り、ほとんど湯船に浸からずに体と頭を洗った。ここのところ続けていたボディスクラブももちろん省略して、手早く体を拭く。化粧水をつける時間はまだあるが、結局しないことにした。ドライヤーもせず電動歯ブラシのスイッチを入れると、洗面所に入ってきた母が「あれ、もう歯磨いてる」と不思議そうな顔をした。「んー」「もう寝るの?」「んーん」「そう?」「んー」「お弁当箱出しといてよ」「んー」

走って部屋に行き、お弁当箱を出してシンクに置く。矢崎くんも、毎日お母さんにお弁当箱出しなさいって言われてるのかな。これで10時20分。

さてここからが問題だ。私はメモを開いて絶望的な気分になった。10時20分から11時まで、ストレッチと筋トレ。私は絨毯に座り込んで、とりあえず開脚してみた。90度をすこし越えるほどしか開かないが、無理やり体を前に倒してみる。膝の裏がみりみりと音を立てるようだ。足を揃えてまた腕を伸ばすが、つま先に届くどころか、腰を立てるだけで膝が曲がった。筋トレなんて、腕立て伏せくらいしか思い浮かばない。3回ほどやってみたが、すぐに体が持ち上がらなくなった。じゅうたんにひたいをぐりぐり押しつけて、これを、毎日、とつぶやく。

電話してみようか、と思ったが、すぐ首を振った。それじゃ、彼女から電話が来た日の矢崎くん、になってしまう。

矢崎くんとは、付き合って2ヶ月になる。文化祭で一緒の係をやるうちに、なんとなく付き合うことになって、それなりに仲良く過ごしていたが、わたしはどうにも矢崎くんのことが分からなかった。矢崎くんがというか、男の子がふだん何を考えて、何をして暮らしているのか、さっぱり想像がつかなかったのだ。しつこくしつこく聞き出してメモしたのは、10時にお風呂に入ってから12時に寝るまでの、矢崎くんのスケジュールだった。

だいたいなんでお風呂のあとに筋トレなんだろう?もう一回汗をかいてどうするんだろう?書いてないけどもう一回シャワー浴びるのかな?もしかして汗かいたまま寝てるのかな?わたしは顔をしかめて、その想像を振り払うためにもう一度だけ、腕立てをした。化粧水を塗っていない顔がすこし乾いてきた。

11時になったら水を飲んで休憩。お茶は飲まないらしい。タオルでしっかり汗を拭いて、ミネラルウォーターを飲む。矢崎くんもしっかり汗を拭いてる、でなければシャワーを浴びている、はず、と自分に言い聞かせながら、お風呂と筋トレで出て行った水分を補給する。体の奥の方がほぐれる感じがして、喉が渇いていたんだな、と分かる。飲んでから喉の渇きに気づくこの感じを、矢崎くんは毎日味わっているのかな、と、わたしは思う。

部屋に戻って、矢崎くんが毎週買っているという漫画雑誌を開いてみた。全部途中からなのでさっぱり分からない。読みやすそうな四コマを選んで読む。ふつうに面白いけれど、お金を出して買うほどではない。矢崎くんの好きなタイトルのものは主人公の顔が見開きで切れていてちょっと笑ってしまった。矢崎くんはそのまま他の漫画を読み返したり、宿題があったら嫌々やったりしているという。0時を過ぎると親に怒られるので、5分前には電気を消しているのだそうだ。わたしの親は何時まで起きていても特になにも言わないので、わたしも思う存分手持ちの漫画を読み、嫌々英語の予習をやった。筋トレをしている間と違って、時間はすぐ過ぎる。時計が23:55という表示になるのを見届けて、わたしはうんと伸びをした。布団に入って、電気を消す。毎日おやすみのラインを送っているのはわたしだったから、今日も送ろうか迷ったけれど、最後まで矢崎くんの一日を過ごしてみたかったのでやめた。でもそれなら、矢崎くんからラインが来たらいいのに。

仰向けになって目を瞑ったとたん、顔の横に置いた携帯が震えた。飛び起きて携帯をつかみ、「もしもし!」と早口で電話に出る。矢崎くんが「めっちゃ速い、出るの」と笑うので、私も笑った。矢崎くんのほうから電話をくれるのはほとんど初めてだった。

「どうだった?俺の生活」

「うーん、なんか、よくわかんなかった」

「筋トレしたの?」

「したよ、無理だったけど」

「俺もまあまあサボってる」

「えー!」

「内緒な」

男の子なのにくすくす笑う、この声が好きなんだよな、とわたしは思いながら、「ねえ、歯磨くの早くない?お風呂上がったあとアイス食べたりしないの?」と聞いてみる。しない、という明快な答えが返ってくる。「晩御飯のあと食べるなら晩御飯倍食べたほうがいい」というが、アイスと晩御飯は別物、という説明がうまく伝わらない。好きな人と一緒に住んだら、夜中に手を繋いでアイスを買いに行くのが夢だったので、すこし残念だ。

突然、矢崎くんの声にノイズが混ざる。ねころがった矢崎くんが体勢を変えたのかな、と思うけれど、「お、どしたどした」と矢崎くんが甘い声を出すので違うとわかる。なに?と尋ねると、「ん?猫が来た」と矢崎くんは簡単に答える。

「猫?」

「猫。最近ドア開けるんだよな」

「飼ってるの?」

「うん?うん。飼ってる」

「前から?」

「子供のころから」

わたしは絶句し、この人のこと、ぜんぜん分からない、と思う。毎日筋トレするのより、晩御飯のあとアイス食べないのより、だんぜん分からない。

「……知らなかった」

「あ、そう?」

「今度、写真見せて」

「いいよ。撮っとく」

撮っとく!わたしはあとずさるような気持ちで、じゃ、そろそろ、寝よかな、おやすみ、と言って電話を切った。

ふかく、ため息をつく。

飼ってる猫の写真を撮らない人と付き合ってだいじょうぶかなー、とわたしは顔を覆う。筋トレに猫がすりよってくる生活の中で、どうやったら猫を可愛がらずにいられるんだろう。いや可愛がってるんだろうけど、なんでいままで見せてくれなかったんだろう。

矢崎くん、たぶんぜったい、わたしのこと友達に自慢してないな。

その確信があまりにも強く、別れよ、と思うけれど、いやそれはさすがに意味がわからなさすぎ、と思い直す。これくらいで嫌いになってどうする。いや、でも、猫の写真を撮らない……。

わたしはひっくりかえって枕に顔を埋める。だいじょうぶかな。男の子って、わからない。お風呂も歯磨きも筋トレも漫画も、ぜんぜん意味が違うじゃないか。とりあえず明日は、筋トレはしないだろう。

【SS】ピクニック

 夏期講習が終わる頃には、雨は本降りになっていた。菜月は桜の木に落ちる雨を眺めて、すこしため息をついた。夏のピクニックは中止だ。

 嬉しいのか、がっかりしているのか、よくわからない。窓から視線を外して、帰っていく同級生たちを見送っていると、数学教師と目があった。

「菜月、帰んないの?」

 若い数学教師は生徒のことを下の名前で呼ぶ。菜月はそれがすこし嫌だった。なんというか、なめられている、と感じるのだ。生徒と近い目線で、などと思っているのだろうが、若いとはいえ一回り以上離れているのだ、友達になれないことくらい、わかっているはずなのに。友達になれないなら、適切な距離を置いてほしかった。

「帰ります。でも、今日は、叔母の家に寄るので」

「叔母さんの?  どこなの」

「すぐそこです、あの、十二時ちょうどに来いって言われてるので、時間をつぶしたくて」

「へえ、なにかあるの?」

 菜月は愛想の良さを取り繕うのが嫌になった。低い声で「ちょっと」と濁して、笑顔も消す。数学教師はそれを気にする様子もなく、「ふーん、早く帰りなね」とだけ言って、教室を出て行った。

 菜月は夏期講習のプリントに視線を落とした。丸もばつもついている。高校は、菜月の成績なら問題なく推薦できそうだ、と担任はごく軽い調子で言っていた。それを信じて、塾にも行かず、中学校のやる夏期講習にだけ顔を出しているけれど、こうして丸やばつを見ていると、ごめん、推薦できなくなった、とやっぱり軽い調子で言われたら、と思うと、肺が狭くなる。両親は、推薦が取れそうだと伝えた時点でごく楽観的になり、不安がる菜月を笑い飛ばした。

 そうだ、夏のピクニックだ。

 いとこが生まれるまで、夏のピクニックは佐川家の恒例行事だった。菜月が生まれるまえから、らしい。ふだん食べられないようなデパ地下のお惣菜や、手作りのサンドイッチを持って、大きな公園に出かけていく。大人たちはワインを飲み、菜月には瓶に入ったジュースが振る舞われた。

 叔母といとこ、両親、それから両親の友人がふたり来るはずだけれど、この雨では外に出て食事など、できそうにない。ましてボール遊びなんて。菜月は眉間をさわった。いとこの顔を思い浮かべると、そこにしわがよる。

 いとこは沙祐美といって、四歳になる。菜月も叔母も両親も、さみちゃん、と呼んでいるし、さみちゃん本人も自分のことをさみちゃんと呼んでいる。保育園に入り、ぐっと言葉の幅が増え、憎らしくなってきた。

 この間さみちゃんに叩かれた太ももには、まだ痣がある。叔母はすぐにさみちゃんを叱ったが、菜月にはなにも言わなかった。菜月は制服のスカートの上からそこをさすり、さみちゃん、がっかりしてるだろうなあ、と、むりやり平和な方向に思考を持っていった。がっかりしてるだろうなあ、泣いちゃったかもな。でもほんとうは、泣いちゃったなんてかわいいものではなく、大声で泣き喚いて暴れるだろうと分かっていた。初めてのピクニックを、あんなにも楽しみにしていたのだから。

 菜月は長針が10を過ぎるのを待って、教室を出た。折り畳み傘を鞄の底から引っ張り出しながら、スニーカーに履き替える。

 昇降口は、ドアが透明なのがいい。菜月はスニーカーのかかとを踏んだまま、外をぼんやりと眺めた。砂の匂い、それから下駄箱の、金属の匂い。雨はまっすぐに地面に落ち、すべてを灰色にくすませている。雨の形を知っていますか、という番組を、この間見た。上がとがった、雫型のイラストをよく見ますが、あれは間違いです。空気抵抗によって、雨粒は赤血球のような形で歪んで落ちてきます。ナレーションの声を頭の中に響かせながら、菜月は外に出た。小さい傘の下、紺色の靴下はすぐびしょ濡れになる。

 叔母のマンションは、入り口で部屋番号を押して中の人に開けてもらわないと入れない。初めてここにきたとき、あまりに立派なロビーを見回していると、叔母はさみちゃんを抱きながら「いいでしょう、慰謝料で買ったのよ」とにやりとした。そのにやりを、来るたびに思い出す。

 ドアを開けてもらい、エレベーターホールに向かう。管理人らしい男性がこちらをちらりと見たので、菜月は早歩きでエレベーターに乗り込んだ。菜月の歩いたあとは、傘から落ちた水滴が道を作っていた。

 

「おっ、来たきた」

 ドアを開けたのは父だった。

「せっかく会社休んだのに、残念だったね」

 菜月は靴を脱ぎながらそう言ったが、父はきょとんとして「なにが?  ああ、雨か」と言った。手にはタオルを持って、菜月の濡れた鞄を拭こうとしているのに、雨か、はないだろう。菜月が濡れた靴下を気にしながら上がると、父は「菜月が来たぞお」と奥にむかって叫んだ。叔母と母の声が「はーい」と揃う。声に遅れて叔母が顔をだし、おいで、と手招きした。父の友人の男性は一人、所在無げに立っていた。

「では、始めましょうか」

 叔母は重々しく言った。その足元で、さみちゃんが無表情に叔母の手を見上げていた。叔母の手には、赤と黄色のボーダーの布が握られている。レジャーシートだ。

 まさか、行くつもりなのか。菜月が呆れて見ていると、叔母は軽い足取りで窓に近づき、ベランダに出た。

 菜月とさみちゃんが並んで見守る中、叔母はサンダルをつっかけ、シートを振り上げ、広げた。ばさっ、と大きな音が立ち、思ったよりも大きなシートがベランダに舞い降りた。

 母と父が続けてベランダに出て――父はいつのまにか裸足だ――バスケットを置き、重箱を並べる。サンドイッチ、手毬寿司、卵焼きと唐揚げ。りんごを丸ごと、白ワインが一本、丸いチーズ。それからあれはなんといったか、パテ・ド・カンパーニュ? プラスチックトレイの輪ゴムを外すと、立派なサラダが現れる。デパ地下のやつだ。菜月とさみちゃんのためのジュースは葡萄。プラスチックのワイングラスが人数分並べられ、ひとつを叔母が手にとって手酌でワインを注いだ。「はいっ!」と父の友人に手渡すと、父の友人は拝む真似をしてから受け取り、ワインボトルを受け取って叔母のグラスに注ぐ。

 外は雨。

 背中を押されるままにベランダに出ると、すこし雨が入ってきているのがわかった。霧程度のこまかい雨粒が顔にかかる。菜月の右隣に父が座って、雨粒は父のからだに遮断された。母が菜月にワイングラスを渡し、瓶から葡萄ジュースを注ぐ。叔母がふざけて、かんぱい、とグラスを持つ手を伸ばした。

 いつのまにか、さみちゃんが隣に座っていた。グラスではなく、いつものコップにジュースをいれてもらっている。取り皿が配られ、菜月も座った。シート越しに、コンクリートの地面がじんわりと熱い。

 クラスじゅうが鉛筆を持って、一斉に長い線を書いたらこんな音がするだろう。取り皿が行き渡り、叔母が全員を見渡すあいだ、雨の音が大きく、でも静かに聞こえていた。菜月は灰色の空と、食べ物の広がる地面を交互に見た。

「では、いただきます」

 叔母が大げさな口調で言うと、菜月以外の全員が「いただきまーす」と声をそろえた。菜月もあわてて「いただきます」と手を合わせ、少し迷ってから、唐揚げに手を伸ばす。母の唐揚げは、昨日から味をなじませていたものだ。衣はすこし湿っていたが、やわらかい歯ごたえがうれしい。菜月は自分の空腹に初めて気がついた。

 遠くで雷鳴が聞こえるが、大人たちは気にせず飲み、食べた。菜月もサラダのトマトだけは丁寧に避けて、満遍なく手をつける。雨はときおり顔にかかったが、さっきほどの勢いはなくなっていた。強い風に紙皿やラップをさらわれないように、みんなしっかりと握っている。母がちょっと置いたつもりの割り箸は風で存外遠くまで飛んでいき、母は「あああー」と追いかけていった。

 さみちゃんはジャムのサンドイッチだけをもくもくと食べていた。菜月はその手元を見て、すこし、胸がつまる気持ちになった。丸い頬は、ほとんど自分と同じ人間とは思われない。手をジャムでべとべとにしているのを見て、菜月はウエットティッシュを取ってやった。

 インターホンが鳴り、叔母が立ち上がった。菜月も顔を見たことのある、父の若い友人が「やあ、遅れまして」と挨拶しながら入ってくる。彼はすこし驚いたような顔でベランダを見渡し、菜月の手に白い箱を乗せた。カップケーキだよ、と彼は笑い、叔母から手渡されたグラスを持って片端から乾杯してまわった。最後にさみちゃんのコップともグラスを合わせる。菜月は箱の中身を覗き込み、かわいらしい色のケーキに頬を緩めた。

 そのとき、一際大きな雷鳴が辺りを満たした。思わず、みな肩を震わせる。おお、大きいねえ、と母が呟き、叔母が、雷注意報出てましたよ、と神妙な顔をして、さみちゃんの口の周りを拭いている。

 雷を怖がるのではないか、と菜月はさみちゃんの顔を覗き込んで、その表情に息をのんだ。顔周りを拭く母親に構わず、さみちゃんは一心に空を見ていた。視線を追って見上げれば、稲妻が空に走るところだった。素早く手を伸ばすように稲妻は走り、突然消えた。さみちゃんはそれを見ていたのだと、菜月には分かった。

「さみちゃん」

 呼びかけると、さみちゃんは菜月の顔を見てにっこりと笑い、空を指差した。

「雷、だよ」

 さみちゃんは首をかしげて、菜月も稲妻も無視して叔母に抱きつく。菜月も空を見るのをやめて、最後のひとつになった唐揚げに手を伸ばした。

「大人になってよかったなあ」

 叔母がグラスを傾けてしみじみと呟く。菜月は苦笑して、子供もわるくないよ、と、胸の内だけで呟いた。

小学生女子と遊んだ話

小学校低学年の女の子と触れ合う機会があった。私はご存知のとおり子供が苦手で、その主な理由は①急に死にそう②急に泣きそう③言葉が通じないといったところなのですが、小学校低学年の女の子というのは①②③のいずれにもあまり該当せず、たいへんかわいいものだった。

言葉が完全に通じる。通じるどころではない、ボードゲームの説明をしてもらった。これやろ!と私だけひっぱられたのでなにかと思ったら、私がパッケージをしげしげ見ていたゲームを取り出して「これやりたかったんでしょ!バレバレだよ!」と言われて「そ、そう〜〜やりたかったの〜〜バレてたか〜〜〜〜」と言うしかなかった。結構複雑なゲームで、しかもカードに書いてある漢字が読めてなかったらしくて、だいぶ要領を得ない説明ではあったが、ちょっとやったら私にもすぐ飲み込めた。小学校低学年ってこんなに言葉が通じるんだ……と思った。

子供時代を描く小説を読むとき、「子供がこんなこと考えてるか?」「こんな言語化できるか?こんな自我あるか?」「私が○歳のころはこんなことできなかった」などと思うことがあるのだが(私が幸せでアホな子供時代を送っただけの話かもしれない)大人になってからほとんど初めて小学生と接してみて、「なめてた!」と思った。意外と自我も言語能力もあった。

そのあとお菓子作りの話になって、バレンタインに好きな男の子にお菓子をあげたというのでいいねえーと言っていたら、「浅川ちゃんはバレンタインあげないの?まだ好きな人いないの?」と言われて、完全に心を撃ち抜かれてしまった。

言ったな!と思ったのだ。小学校低学年だと初恋はまだかみたいなのがかなりメインなトピックで、何回も好きな男の子を変える子もいればぜんぜんそういうの興味ない、男子はみんなバカ、みたいなスタンスの子もいて、「まだ好きな人いないの?」というのは、すごく自然な言葉だった。私も言ったな!それ!小学生のころ!と思ってだいぶ興奮して、「好きな人ねーいるよー!」と返してしまった。

私は小学生だったことがあるというだけで小学生のことを分かったような気がしていたけれど、それは私の頭の中の小学生でしかなくて、現実の小学生とは程遠い。私はどんどん忘れていくし、思い出せなくなっていく。そういうときにどうやって思い出すかというと、現実と触れ合うことしかないし、その現実とかつて自分が知っていた現実を混ぜ合わせて、自分の解釈を作るしかない。思い出したり、新しく知ったり、勘違いしたりしながら、自分の過去をもう一回作っていくのだ。

小学生があまりにもかわいくて、そういうことを考えた。自分のなかの小学生像がアップデートされた一日だった。

【SS】缶コーヒー

家に帰ったら、同居人が缶コーヒーを茹でていた。

「ただいま。なにしてんの」

「あっためてるの」

熱湯の煮える片手鍋には、蓋の開いた缶コーヒーが立っている。同居人は巻いた髪をポニーテールにしたまま缶コーヒーを見下ろしている。私が説明を求めてしばらく見ていると、同居人は私を二回見てからため息をついた。

「もらったの、でも飲まずに持って帰っただから冷めちゃったの、だからあっためてるの。湯煎で。わかって」

「カップに移してチンすればよくない?」

同居人は私の言葉を無視して「そろそろいいかなあ」と火を止めた。どうするつもりかなと見ていると、同居人はお湯に触れないよう慎重に手を伸ばし、缶の縁に触れた途端「あっ……つ!」と手を引っ込めた。

「カップに移してチンすればよくない?」

「うるさいなあ早紀ちゃんは」

今度は無視されずに怒らせたことに満足したので、私は布巾を畳んで缶にかぶせ、そっと持ち上げてコンロの横に下ろしてやった。同居人は聞き取れないほど小さな声で「ありがと」と呟いたが、怒らせたばかりなので聞こえなかったことにしておいた。

コートを脱いでハンガーにかけ、手を洗ってトイレに行って台所に戻ってくると、同居人はまだ缶コーヒーをつついていた。布巾にくるんでそっと持ち上げ、唇に近づけては離している。私の視線に気づくとばつが悪そうに目をそらしてから、髪が揺れるほどの勢いで顔を上げ「もっかい言ったら怒るから!」と叫んだ。もう怒っている。私は「カップに」と言いかけた口を噤んで、電気ケトルに水を注いだ。立ったままお湯が沸くのを待つ。

「デートだったんでしょ?」

「そう」

「でもこんな時間に帰って来たんだ」

「そう」

同居人はきれいに巻かれたままの髪をいじりながら答えた。晩ご飯は食べたけど、ホテルには行かなかった、ということだろう。お酒も飲まなかったのかもしれない。この髪の作り方だからたぶん初めての相手、しかもそれなりに気合を入れて行ったのだろう。気の毒になって、缶コーヒーから目をそらしてやった。

ケトルが静かに音を立てはじめる。同居人は右足のつま先をとんとん床に打ちつけながら、「あっこれ解散になるな、って思ったから、お茶でも飲んできませんか、って言ったのね」と呟く。うん、と返事をすると、同居人は眉根を寄せて続けた。

「ああじゃあ、って言って、あっちにスタバあったなって見たら、いないの。その人。自動販売機のほうに走ってって」

「それで」

「くれたの」

「はあ」

「あったかいよって」

どういう男だ。思わず同居人の顔と缶コーヒーを見比べて、もう一度同居人を見た。きれいにつけられたチークの向こうに、ほんとうに赤い顔が透けて見える。「えっ」と思わず漏れてしまった声を聞き逃さず、同居人は顔を覆って「そうなんだよお」と叫んだ。ケトルの音がごとごというものに変わった。

「そ、そうなの……あんたの好みはよくわからないな……いやでもそれは……脈なしじゃん?」

「だよね、私もそう思うの、早紀ちゃんもそう思うならほんとうにそうなんだあ」

言ってしゃがみこみ、シンクの淵に手をかけたまま腕の間に頭を落としてうなだれている。私は言葉もなく、とりあえず頭を撫でてやった。髪を結んだ女の子の頭は撫でづらい。同居人はおとなしく撫でられながら、台所の壁を見つめている。ばしんとスイッチの戻る音がして、ケトルが沸騰を知らせた。

「コーヒーが冷めるまで一緒にいたの、ベンチに座って。冷めちゃったし帰りましょうかって言われるまで。その間すごく幸せだった。でもね、あの……早紀ちゃんは怒るかもしれないけど……」

「なに」

「コーヒーを飲んじゃう幸せもあるんだよね、二人で並んであったかいもの飲む幸せも。両方ほしくなっちゃって、つらかった」

それのなにが私を怒らせるのか、いまひとつ分からない。私は自分のカップを取り出して、緑茶のティーバッグを放り込んだ。

しかし好きな人と飲んだ缶コーヒーを缶コーヒーのまま飲みたいなんて、この子にもかわいいところがあったものだ。私がそんなことを思いながら緑茶を飲んでいると、同居人は「はあ……よし……」と呟きながらふらふらと立ち上がった。持てる程度に冷めた缶コーヒーに口をつけると、白いのどを反らして一気飲みする。カン! と小気味良い音を立ててシンクに置き、「絶対落とす」と宣言した。

そのまま髪をほどいて風呂場に向かい、脱いだ服を投げ始めるので、私は「コーヒー! ちゃんと片付けて! とっとくなら洗って!」と叫んだが、全裸の彼女はけげんそうな顔で脱衣所から出てきて缶を一瞥し、「え、捨てといて」とだけ言って顔をひっこめた。

アップルパイの話

アップルパイを作るのが世界一好きかもしれない。

しかしアップルパイを作るのは世界一面倒くさいので二回しかやったことがない。私の持っているレシピではパイ生地を作るのに半日かかる。「伸ばして三つに折り込んで整える。冷蔵庫で一時間寝かせる。これを三回繰り返す。」という工程があるからだ。

この合間にりんごを煮る。くるくる剥いて切って鍋に砂糖と一緒に入れて数分待つ。浸透圧のことを考えているうちにりんごから水分がどんどん出てくるので、火にかけて絶えず混ぜ続ける。出きった水が今度はりんごに戻って、りんごの白が透明になり、気がつけばじゅうじゅう音がするほど水が減っている。適当なところで火を止める。この間ずっとりんごの甘い透明な匂いがしていて、もうこれだけ食べたいと思うけれどまだ世界一面倒なパイ生地の作業がある。漫画を読んだりイラストロジックを埋めたりしつつ待ち時間を潰し、パイ皿に生地を敷き詰めてりんごを流す。オーブンに入れた途端、なにか手順を間違ったのではないか、まったく層になっていないのではないか、手が暖かかったからバターが溶けたかも、りんごの砂糖が多すぎたかも、と不安が襲ってくるが、これ以上どうしようもないのでそのままスイッチを入れる。また漫画を読んだり2048をしたりして時間を潰す。2048が一回できるころには、いい匂いがして焼きあがっている。焼きたてを食べればりんごの良さが最大限引き立ち、きっちり冷やして食べれば歯にバターが張り付いて心地よい。

そういうわけでアップルパイ作りは楽しい。

ところで先日友人の手作りキッシュをご馳走になりながらパイ生地の面倒くささをぼやいたら、そんなに時間をかけてないと言われてきょとんとした。話を聞いてみるとどうも、寝かせる時間がかなり少ない。そんなばかなとレシピを読み返してみて、もしかしてと疑念がよぎった。私の持っているレシピはクックパッドなのだ。「伸ばして三つに折り込んで整える。冷蔵庫で一時間寝かせる。これを三回繰り返す。」は、「伸ばして三つに折り込んで整える。これを三回繰り返す。冷蔵庫で一時間寝かせる。」の書き間違いでは?そうしたら私のあの、漫画を読んだり数独を解いたりしている半日は?

次はいちいち寝かせずにやってみようと思うのだが、まだ試していない。こんどこそオーブンの前の不安が現実になるか、乞うご期待!と自分に叫んでいる。

桜を探して歩いた話

不毛の地で働いているため桜の捜索は難渋を極めた。昼休みごとに辺りを歩くものの、あるのは小さすぎる街路樹か汁なし担々麺屋ばかり。しかしようやく見つけたのである、ぺんぺん草も生えない荒地の奥、連なるビルの陰にひっそりと佇む桜の木を。花びらはまだ降り注ぐほどではなく、ただ晴れ晴れと青空に輝いている。数少ない道行く人がつぎつぎ立ち止まり、携帯を掲げて写真を撮っている。木の根元では、近くの工事現場から来たのだろう、男性たちが幾人か座り込んでおにぎりを食べていた。あたりはほこほこと暖かい。私はしばらく歓喜に震えたあと、急いで道を引き返してコンビニに向かった。温かいお茶と草大福を手に意気揚々と戻る。男性たちからすこし離れたところに小さなベンチがあるのを、私は見逃していなかった。完璧だ。

しかし桜の木の下に戻った私を出迎えたのは敗北だった。二十人はいようかというグループがレジャーシートを広げている真っ最中だったのだ。彼らは社員証もつけたまま、ベンチのそばから男性たちの座るあたりまでひろびろとシートを広げた。缶ビールが配られ、恰幅の良い男性が乾杯の音頭を取ろうと立ち上がった。「えー、みなさん、本日は足元のお悪い中」(どっ)「いい天気だぞー!」「足元のよろしい中の開催となりたいへん嬉しく思っております」(拍手)「みなさんお飲み物はお持ちでしょうか!」「はーい!」私は桜の写真を撮るふりをやめて立ち去った。

草大福は別の公園で食べた。彼らはいったい午後の仕事をどうしたのか、それが気になるばかりである。

初めての化粧の話

高校生のとき、文化祭で映画を撮った。ヤンキーという設定の女の子たちはみな化粧道具を持ち寄って、はしゃぎながら慣れない化粧を施した。クラスの女の子たちの何人かは口紅を塗っただけで大幅に可愛くなっていて目を見張ったが、私自身については、なんにも変わってないじゃん、と思った覚えがある。私はそのころ、自分の顔をよく見たことなんてなかったのだ。自分と同じ顔の人間とすれ違ったって分からなかっただろう。ただまあ、今になって思うと、アイシャドウが水色だった時点で最悪の出来だったと思われる。初めての化粧でうまく可愛くなった子はそのまま化粧を続け、私のようなタイプはすっぴんで通すことになった。

そのだいぶ後の国語の授業で、寺山修司のこんな言葉が紹介された。

「私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には『たかが人生じゃないの』というほどの余裕も感じられます。」(青女論)

化粧をしている女の子たちは、この言葉を一刀両断した。「そんなことはひとつも考えていない、かわいいと思うからやってるだけ」というのである。そうだよな、と私も思った。

でも今ならわかる。あの日私たちは、虚構によって乗り切るべき現実なんてなかったのだ。私は自分の目の形を知らなかった、肌が汚いことを知らなかった、他人からどう思われていて、それをどう覆すことができるのか知らなかった。覆したいと思っていたって、それと化粧がなんの関係があるのか、考える手がかりもなかった。私たちには友達がいて、美しく泥臭い青春があり、幼くて健康だった。乗り切るべき現実は、勉強や親との関係や恋や友達や悪口や露出狂で、化粧とはなんの関係もないように見えた。

いま、毎朝鏡に向かって肌のくすみを一生懸命消しながら、青いアイシャドウのことを思い出す。自分の顔に気づいていなかったころ、口紅を塗るだけで美しかったあの友達のことを。