好きなことの話

好きなことの話をします

小学生女子と遊んだ話

小学校低学年の女の子と触れ合う機会があった。私はご存知のとおり子供が苦手で、その主な理由は①急に死にそう②急に泣きそう③言葉が通じないといったところなのですが、小学校低学年の女の子というのは①②③のいずれにもあまり該当せず、たいへんかわいいものだった。

言葉が完全に通じる。通じるどころではない、ボードゲームの説明をしてもらった。これやろ!と私だけひっぱられたのでなにかと思ったら、私がパッケージをしげしげ見ていたゲームを取り出して「これやりたかったんでしょ!バレバレだよ!」と言われて「そ、そう〜〜やりたかったの〜〜バレてたか〜〜〜〜」と言うしかなかった。結構複雑なゲームで、しかもカードに書いてある漢字が読めてなかったらしくて、だいぶ要領を得ない説明ではあったが、ちょっとやったら私にもすぐ飲み込めた。小学校低学年ってこんなに言葉が通じるんだ……と思った。

子供時代を描く小説を読むとき、「子供がこんなこと考えてるか?」「こんな言語化できるか?こんな自我あるか?」「私が○歳のころはこんなことできなかった」などと思うことがあるのだが(私が幸せでアホな子供時代を送っただけの話かもしれない)大人になってからほとんど初めて小学生と接してみて、「なめてた!」と思った。意外と自我も言語能力もあった。

そのあとお菓子作りの話になって、バレンタインに好きな男の子にお菓子をあげたというのでいいねえーと言っていたら、「浅川ちゃんはバレンタインあげないの?まだ好きな人いないの?」と言われて、完全に心を撃ち抜かれてしまった。

言ったな!と思ったのだ。小学校低学年だと初恋はまだかみたいなのがかなりメインなトピックで、何回も好きな男の子を変える子もいればぜんぜんそういうの興味ない、男子はみんなバカ、みたいなスタンスの子もいて、「まだ好きな人いないの?」というのは、すごく自然な言葉だった。私も言ったな!それ!小学生のころ!と思ってだいぶ興奮して、「好きな人ねーいるよー!」と返してしまった。

私は小学生だったことがあるというだけで小学生のことを分かったような気がしていたけれど、それは私の頭の中の小学生でしかなくて、現実の小学生とは程遠い。私はどんどん忘れていくし、思い出せなくなっていく。そういうときにどうやって思い出すかというと、現実と触れ合うことしかないし、その現実とかつて自分が知っていた現実を混ぜ合わせて、自分の解釈を作るしかない。思い出したり、新しく知ったり、勘違いしたりしながら、自分の過去をもう一回作っていくのだ。

小学生があまりにもかわいくて、そういうことを考えた。自分のなかの小学生像がアップデートされた一日だった。

【SS】缶コーヒー

家に帰ったら、同居人が缶コーヒーを茹でていた。

「ただいま。なにしてんの」

「あっためてるの」

熱湯の煮える片手鍋には、蓋の開いた缶コーヒーが立っている。同居人は巻いた髪をポニーテールにしたまま缶コーヒーを見下ろしている。私が説明を求めてしばらく見ていると、同居人は私を二回見てからため息をついた。

「もらったの、でも飲まずに持って帰っただから冷めちゃったの、だからあっためてるの。湯煎で。わかって」

「カップに移してチンすればよくない?」

同居人は私の言葉を無視して「そろそろいいかなあ」と火を止めた。どうするつもりかなと見ていると、同居人はお湯に触れないよう慎重に手を伸ばし、缶の縁に触れた途端「あっ……つ!」と手を引っ込めた。

「カップに移してチンすればよくない?」

「うるさいなあ早紀ちゃんは」

今度は無視されずに怒らせたことに満足したので、私は布巾を畳んで缶にかぶせ、そっと持ち上げてコンロの横に下ろしてやった。同居人は聞き取れないほど小さな声で「ありがと」と呟いたが、怒らせたばかりなので聞こえなかったことにしておいた。

コートを脱いでハンガーにかけ、手を洗ってトイレに行って台所に戻ってくると、同居人はまだ缶コーヒーをつついていた。布巾にくるんでそっと持ち上げ、唇に近づけては離している。私の視線に気づくとばつが悪そうに目をそらしてから、髪が揺れるほどの勢いで顔を上げ「もっかい言ったら怒るから!」と叫んだ。もう怒っている。私は「カップに」と言いかけた口を噤んで、電気ケトルに水を注いだ。立ったままお湯が沸くのを待つ。

「デートだったんでしょ?」

「そう」

「でもこんな時間に帰って来たんだ」

「そう」

同居人はきれいに巻かれたままの髪をいじりながら答えた。晩ご飯は食べたけど、ホテルには行かなかった、ということだろう。お酒も飲まなかったのかもしれない。この髪の作り方だからたぶん初めての相手、しかもそれなりに気合を入れて行ったのだろう。気の毒になって、缶コーヒーから目をそらしてやった。

ケトルが静かに音を立てはじめる。同居人は右足のつま先をとんとん床に打ちつけながら、「あっこれ解散になるな、って思ったから、お茶でも飲んできませんか、って言ったのね」と呟く。うん、と返事をすると、同居人は眉根を寄せて続けた。

「ああじゃあ、って言って、あっちにスタバあったなって見たら、いないの。その人。自動販売機のほうに走ってって」

「それで」

「くれたの」

「はあ」

「あったかいよって」

どういう男だ。思わず同居人の顔と缶コーヒーを見比べて、もう一度同居人を見た。きれいにつけられたチークの向こうに、ほんとうに赤い顔が透けて見える。「えっ」と思わず漏れてしまった声を聞き逃さず、同居人は顔を覆って「そうなんだよお」と叫んだ。ケトルの音がごとごというものに変わった。

「そ、そうなの……あんたの好みはよくわからないな……いやでもそれは……脈なしじゃん?」

「だよね、私もそう思うの、早紀ちゃんもそう思うならほんとうにそうなんだあ」

言ってしゃがみこみ、シンクの淵に手をかけたまま腕の間に頭を落としてうなだれている。私は言葉もなく、とりあえず頭を撫でてやった。髪を結んだ女の子の頭は撫でづらい。同居人はおとなしく撫でられながら、台所の壁を見つめている。ばしんとスイッチの戻る音がして、ケトルが沸騰を知らせた。

「コーヒーが冷めるまで一緒にいたの、ベンチに座って。冷めちゃったし帰りましょうかって言われるまで。その間すごく幸せだった。でもね、あの……早紀ちゃんは怒るかもしれないけど……」

「なに」

「コーヒーを飲んじゃう幸せもあるんだよね、二人で並んであったかいもの飲む幸せも。両方ほしくなっちゃって、つらかった」

それのなにが私を怒らせるのか、いまひとつ分からない。私は自分のカップを取り出して、緑茶のティーバッグを放り込んだ。

しかし好きな人と飲んだ缶コーヒーを缶コーヒーのまま飲みたいなんて、この子にもかわいいところがあったものだ。私がそんなことを思いながら緑茶を飲んでいると、同居人は「はあ……よし……」と呟きながらふらふらと立ち上がった。持てる程度に冷めた缶コーヒーに口をつけると、白いのどを反らして一気飲みする。カン! と小気味良い音を立ててシンクに置き、「絶対落とす」と宣言した。

そのまま髪をほどいて風呂場に向かい、脱いだ服を投げ始めるので、私は「コーヒー! ちゃんと片付けて! とっとくなら洗って!」と叫んだが、全裸の彼女はけげんそうな顔で脱衣所から出てきて缶を一瞥し、「え、捨てといて」とだけ言って顔をひっこめた。

アップルパイの話

アップルパイを作るのが世界一好きかもしれない。

しかしアップルパイを作るのは世界一面倒くさいので二回しかやったことがない。私の持っているレシピではパイ生地を作るのに半日かかる。「伸ばして三つに折り込んで整える。冷蔵庫で一時間寝かせる。これを三回繰り返す。」という工程があるからだ。

この合間にりんごを煮る。くるくる剥いて切って鍋に砂糖と一緒に入れて数分待つ。浸透圧のことを考えているうちにりんごから水分がどんどん出てくるので、火にかけて絶えず混ぜ続ける。出きった水が今度はりんごに戻って、りんごの白が透明になり、気がつけばじゅうじゅう音がするほど水が減っている。適当なところで火を止める。この間ずっとりんごの甘い透明な匂いがしていて、もうこれだけ食べたいと思うけれどまだ世界一面倒なパイ生地の作業がある。漫画を読んだりイラストロジックを埋めたりしつつ待ち時間を潰し、パイ皿に生地を敷き詰めてりんごを流す。オーブンに入れた途端、なにか手順を間違ったのではないか、まったく層になっていないのではないか、手が暖かかったからバターが溶けたかも、りんごの砂糖が多すぎたかも、と不安が襲ってくるが、これ以上どうしようもないのでそのままスイッチを入れる。また漫画を読んだり2048をしたりして時間を潰す。2048が一回できるころには、いい匂いがして焼きあがっている。焼きたてを食べればりんごの良さが最大限引き立ち、きっちり冷やして食べれば歯にバターが張り付いて心地よい。

そういうわけでアップルパイ作りは楽しい。

ところで先日友人の手作りキッシュをご馳走になりながらパイ生地の面倒くささをぼやいたら、そんなに時間をかけてないと言われてきょとんとした。話を聞いてみるとどうも、寝かせる時間がかなり少ない。そんなばかなとレシピを読み返してみて、もしかしてと疑念がよぎった。私の持っているレシピはクックパッドなのだ。「伸ばして三つに折り込んで整える。冷蔵庫で一時間寝かせる。これを三回繰り返す。」は、「伸ばして三つに折り込んで整える。これを三回繰り返す。冷蔵庫で一時間寝かせる。」の書き間違いでは?そうしたら私のあの、漫画を読んだり数独を解いたりしている半日は?

次はいちいち寝かせずにやってみようと思うのだが、まだ試していない。こんどこそオーブンの前の不安が現実になるか、乞うご期待!と自分に叫んでいる。

桜を探して歩いた話

不毛の地で働いているため桜の捜索は難渋を極めた。昼休みごとに辺りを歩くものの、あるのは小さすぎる街路樹か汁なし担々麺屋ばかり。しかしようやく見つけたのである、ぺんぺん草も生えない荒地の奥、連なるビルの陰にひっそりと佇む桜の木を。花びらはまだ降り注ぐほどではなく、ただ晴れ晴れと青空に輝いている。数少ない道行く人がつぎつぎ立ち止まり、携帯を掲げて写真を撮っている。木の根元では、近くの工事現場から来たのだろう、男性たちが幾人か座り込んでおにぎりを食べていた。あたりはほこほこと暖かい。私はしばらく歓喜に震えたあと、急いで道を引き返してコンビニに向かった。温かいお茶と草大福を手に意気揚々と戻る。男性たちからすこし離れたところに小さなベンチがあるのを、私は見逃していなかった。完璧だ。

しかし桜の木の下に戻った私を出迎えたのは敗北だった。二十人はいようかというグループがレジャーシートを広げている真っ最中だったのだ。彼らは社員証もつけたまま、ベンチのそばから男性たちの座るあたりまでひろびろとシートを広げた。缶ビールが配られ、恰幅の良い男性が乾杯の音頭を取ろうと立ち上がった。「えー、みなさん、本日は足元のお悪い中」(どっ)「いい天気だぞー!」「足元のよろしい中の開催となりたいへん嬉しく思っております」(拍手)「みなさんお飲み物はお持ちでしょうか!」「はーい!」私は桜の写真を撮るふりをやめて立ち去った。

草大福は別の公園で食べた。彼らはいったい午後の仕事をどうしたのか、それが気になるばかりである。

初めての化粧の話

高校生のとき、文化祭で映画を撮った。ヤンキーという設定の女の子たちはみな化粧道具を持ち寄って、はしゃぎながら慣れない化粧を施した。クラスの女の子たちの何人かは口紅を塗っただけで大幅に可愛くなっていて目を見張ったが、私自身については、なんにも変わってないじゃん、と思った覚えがある。私はそのころ、自分の顔をよく見たことなんてなかったのだ。自分と同じ顔の人間とすれ違ったって分からなかっただろう。ただまあ、今になって思うと、アイシャドウが水色だった時点で最悪の出来だったと思われる。初めての化粧でうまく可愛くなった子はそのまま化粧を続け、私のようなタイプはすっぴんで通すことになった。

そのだいぶ後の国語の授業で、寺山修司のこんな言葉が紹介された。

「私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には『たかが人生じゃないの』というほどの余裕も感じられます。」(青女論)

化粧をしている女の子たちは、この言葉を一刀両断した。「そんなことはひとつも考えていない、かわいいと思うからやってるだけ」というのである。そうだよな、と私も思った。

でも今ならわかる。あの日私たちは、虚構によって乗り切るべき現実なんてなかったのだ。私は自分の目の形を知らなかった、肌が汚いことを知らなかった、他人からどう思われていて、それをどう覆すことができるのか知らなかった。覆したいと思っていたって、それと化粧がなんの関係があるのか、考える手がかりもなかった。私たちには友達がいて、美しく泥臭い青春があり、幼くて健康だった。乗り切るべき現実は、勉強や親との関係や恋や友達や悪口や露出狂で、化粧とはなんの関係もないように見えた。

いま、毎朝鏡に向かって肌のくすみを一生懸命消しながら、青いアイシャドウのことを思い出す。自分の顔に気づいていなかったころ、口紅を塗るだけで美しかったあの友達のことを。

【SS】豆腐と永遠

え、い、え、ん。永遠?僕は思わず聞き返した。そうだよ、と高木は真顔で頷く。

「永遠って言った。今」

「えいえん」

僕の箸の下で冷奴が崩れている。背後の店員がいらっしゃいませ何名様でしょうかと叫んだ。

ドラマや映画っていうのは俺はどうしても好きになれないんだ、と高木が言ったのが始まりだった。「なにが好きになれないって、あの独り言だよ。こないだなんて、ヒロインが片思いの相手の前で『はあ、なんでこんな人好きになっちゃったんだろ……』ってつぶやくんだよ、そんなことありえないだろ、『えっ?』『あっ、ううん!なんでもない!』とか言って」「あるよね」僕は笑ってそう返した。しかし高木は僕の相槌など聞かずに、「お前の独り言みたいなのがほんとの独り言なんだよ」と続けたので、僕は笑いを曖昧にして冷奴の皿を引き寄せた。

僕の独り言のくせは、いまに始まったことではない。外ではなんとか堪えているのだが、気を許した人の前だと、無限に独り言が出てしまう。恥ずかしいけれど、仕方ない、という開き直った気持ちもあって、親しくなりそうな人には先んじて「あのう、僕、めちゃくちゃ独り言言いますけど、気にしないでください。気になるなら怒ってください」と言っている。最初怪訝そうな顔をしていた友人未満の彼らは、やがて僕の独り言を聞いて納得し、多くの人は離れ、何人かはぐっと距離を詰めてきた。その、ぐっと距離を詰めてきたうちの一人が高木だ。

「お前の独り言のいいところは意味がまったくないことだ」「困るところでもある」「お前が困るかどうかは聞いていない」高木はときどき横暴だ。「お前、あれはなんなの、自分で言ってて気づかないの?」「気づくよ、いくらなんでも。そうじゃないと仕事ができない」「さっきのは?」「さっきの?」そして高木は神妙な顔で、一文字ずつ声に出したのだ。「え、い、え、ん」「永遠?」「そうだよ、永遠、って言った。今」「えいえん」

たしかに、映画やドラマで脈絡もなく「永遠」と呟く登場人物がいたら物語に支障があるだろう。「なんで永遠なんて言ったんだろ」「永遠のこと考えてたわけじゃないんだろ」「冷奴のことしか考えてなかったよ」「ああ、その前に豆腐豆腐とも言ってたな」「そっちは覚えてる」「そういうのがいいんだよなあ」

いったいなにが良いのか分からずに僕は黙り込む。黙り込む、というのは比喩表現で、僕の口からはまた、ぐちゃぐちゃ、と独り言が漏れている。粉々になった豆腐を箸の先で慎重に持ち上げて口に運ぶ。運ばれてきた唐揚げがだしつゆの香りを一気にかき消した。高木は大皿に乗った唐揚げを独占しながら、「お前覚えてるか、棚田先生の授業」と言う。「心理学?」「そう。フロイトか誰かが、言い間違いはその人の無意識を反映するって言ってただろ。それをいつも思い出すんだ」「僕の独り言で?」「そう」

僕が唐揚げに箸を伸ばすと、高木は心底残念そうな顔をして皿から手を離した。不本意、と僕の口から言葉が落ちる。それから、ジークムントフロイト、とも。高木はそのどちらにも返事をせず、「そうだな、あれだよ、つまり……引き出しのことを考えるんだ、俺は」と箸を空中に彷徨わせる。「引き出し」僕は引き出しを引き出す真似をしてみせる。実家の学習机についている木製の引き出しだ。空想の引き出しは出しすぎてがたんと膝に落ちてきたので、僕もがたんと言ってしまう。

「この間俺は、純粋芸術と自己表出を言い間違えた」「ぜんぜん違うじゃないか」「そう、一文字も合ってないけど、俺の頭の中の同じ引き出しに入ってるんだよ、純粋芸術と自己表出が。たぶん同じ時期に覚えた言葉なんだよな。『芸術』と『美』らへんに共通点もある。あとどっちも普遍性に関する言葉だし」「いったいなんの話をしようとして言い間違えたんだ?」僕の疑問には答えず、高木も架空の引き出しを開けてみせる。「ジークムント・フロイトさんが言ってたニュースとジュースの取り違えは、同じ引き出しに入ってるんだというのを想像したんだ、棚田さんの授業で。ニュースとジュースとか、純粋芸術と自己表出は分かるだろ、同じ引き出しに入ってる意味が。まあ他の人には分からないかもしれないけど、俺には分かる。でもお前の引き出しは」と高木は突然唐揚げを頬張って、五秒ほどの沈黙が降りる。「豆腐と永遠がいっしょに入ってるんだ」

「豆腐と永遠」

僕は豆腐と永遠が実家の引き出しに入っているのを想像した。ほこりが、と僕はつぶやいている。ほこりがはいる。豆腐に。

「もう一個教えとくと、お前その前は久留里線って言ってた」「く、久留里線」「最高だよ。純粋な独り言って感じがする」高木は唐揚げの皿をいつのまにか空にして、架空の引き出しを開けてにやにや笑っている。ポテトサラダは何と一緒に入っているのか知りたくて、僕は店員を呼び止めた。

‪> つい独り言を言ってしまう人の話を。 http://odaibako.net/detail/request/5a76c499a6a448539354650baa1260fb #odaibako‬

【SS】月影

twitterでお題を募集したら長文が来たので続きを書きました。「----------」から「----------」までがお題部分です。

 

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櫓の下には井戸が拵えてあって、それは大抵木蓋で閉じられているものなのだが、時折町人の誰かが閉め忘れることがあるらしく、こうして見張の夜番で櫓に登り、月が高く昇るころに見下ろすと、澄明な水を湛えた水面に見事な月が浮かぶのを見ることがある。
表面を叩いてもいない急造の櫓の上で毛羽立った木に座り込み、町を見やる。夜分であって静まり返ってはいるが、しかしまだ寝付くには早いのか、細く灯りの漏れる家が多い。立って反対側の森へ視線を移せば稜線のなだらかな波形と、渓谷部を北へ伸びる交易路の波形とが放射するように広がっている。
いくつかの息を吐いて、晴れ晴れとした夜空をしばし眺める。もう更けるかのような明るさが大地を照らし、空気は海と同じ深さを感じさせる。
木々の隙間に目を凝らせば葉の動きまで見つけられることに気がつくと、湯のような安堵が腰のあたりまで湧いて出てくる。こう明るければ、敵も夜襲などはかけないだろう。
また梯子に足を投げ出して、井戸の底に浮いた月を見る。先ほどからやや横に位置を変えた月の更に横に、やはり月のように丸い顔がこちらをじっと見上げているのだった。

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 それが幻覚なのはとうの昔にわかっていた。こうして櫓の上に座っていると、その少年は必ずそこにいてこちらを見上げているのだが、そんな顔の少年はこの町のどこにもいない。丸い頬は焼きたてのパンに似てやわらかそうで、腕や足も同様にふっくらとしている。低い鼻は上を向いていて鼻孔が目立ち、目は肉に押されて細く垂れている。それは少年のころの彼自身だった。
 初めての不寝番のときは闇夜だった、と彼は思い出す。町の明かりが消えるころには彼はほとんどパニックだった。櫓が風で揺れているのか、自分の心臓が暴れているのか、それても敵が攻めてきたのかの区別もつかず、膝を抱えてぶるぶる震えているときに、その少年は現れた。井戸のそばをひょこひょこと歩く影を見てすわ敵の斥候かと立ち上がると、櫓のきしむ音にその影は振り返り、手を振ってみせた。その丸いシルエット、小さすぎる身長は、どう見ても兵士のそれではない。兵士どころか、あれはもしや、と彼が息をのんで見守る中で、影は闇に溶けるように消えていった。
 以来、彼が見張りに立つたび、その少年は井戸のそばでこちらを見上げている。彼は井戸に、それから少年に、町の家々に視線を移し、自分の手をかざした。節くれだった指にはあちこちにたこができて、立派な職人のそれだ。とてもあの丸々とした少年と自分とが同一人物だとは思うまい。今年の春、戦争が始まると同時に生まれた息子は自分に似ていなくて、彼はそのときひそかに安堵したものだ。
 そうだよね、と耳元で声がして彼は飛び上がった。月のように丸い顔が、月明かりに照らされてつやつやと光っている。純朴そうな瞳が彼を見据えて、そうだよね、あの子は僕と全然似ていない、とうなずく。彼は肋骨を叩く心臓を抑えて、ああそうだ、と彼は震える声を漏らした。幻覚が櫓に上がってきたのは初めてだった。
 幻覚は物珍しそうに町や森を見渡している。町の明かりは、いつの間にかずいぶん少なくなっていた。強くなってきた風にきしむ櫓の音に紛れて、少年は確かにつぶやいた。あっちから来るよ。
 やめろ、と彼は大声を出した。明るい空間は声をすぐ吸い取って、音は地上まで届かずに消えた。幻覚は不思議そうに首をかしげて、同じ言葉を繰り返す。あっちから来るよ。じきに来るよ。彼はほとんど泣きたいような気持で耳をふさいで体を折り曲げた。
 ほんのいたずらだった。いたずらというほどの意図があったわけでもない。ただなんとなく、本当になんとなく、少年のころの彼は言ってみたのだった。あっちから来るよ。意味ありげな顔をして、適当な方向を指さした。その先に何があるのか、そのころの彼は知らなかった。ちょうど前の週にその先にある町が盗賊たちに襲われて、大人たちがみな不安がっていることも。この子は何かを見たのかもしれない。そういえばこの子の祖母は巫女だった、直感があるんじゃないか。いやそもそも何かあるかはともかく、隣町のことは本当なのだから、警戒するに越したことはない。大人たちは見張りを立てることにして、そして数日後の夜、気が立った見張りたちと酔っ払いとがもみ合いになり、もみ合いではすまない騒ぎになり、一人が鍬を腹に突き立てられ、一人が壁に頭をつぶされて死んだ。仲間割れがあっちから来たのだった。
 彼はしばらくのあいだ、何が起こったのかよく知らずにいた。嘘をついたこともよくわかってはいなくて、実際に何かを見たような気がしていた。木の陰に盗賊の服の裾を見たような、不吉な黒い影が地面に渦巻くのを見たような。二人は知らない人間だったし、葬儀からは遠ざけられていたから、知る機会がなかったのだ。盗賊はついに来なかった。彼はつまり、一度目で狼が来てしまった狼少年だった。
 自分が引き起こしたのは何だったのか知るころ、丸い体型はだんだんと細くなり、筋骨隆々とはいかないが十分に立派な体躯の青年になった。彼の過剰なまでの慎重さは誰もが笑い、冗談の種にしたが、彼の本心に気づくものはいなかった。彼はこう思っていたのだ、俺が見るものはすべて幻かもしれない、すべての不吉な徴は、本当でも嘘でもあるのだと。
 少年の彼は櫓から身を乗り出して森のほうを見ている。ねえ、あっちを見てみなよ、と少年は言う。彼は逆らう気力もなく顔を上げて、心臓が止まるほど強く脈打つのを感じた。こんなに明るい月の夜に、敵が来るはずがない。立ち上がって、相手からもこちらが見えることを思い出してまたしゃがむ。木の陰、葉の間に、確かに人間がいる。長物は持っていないが、ゆるいズボンの形、頭に巻いた布の色は、確かに敵兵のものだ。
 彼はとっさに鉦のばちをつかんだ。訓練で何度も繰り返した、五回打って一息休み、五回打って一息休む、それが敵兵発見の合図だった。ばちが鉦をたたく響きを掌にはっきり感じたのに、鉦は鳴っていなかった。彼の手は震えて、鉦を叩くどころかばちをしっかり持つこともままならない。焦るうちに少年が彼の顔を下から覗き込んできた。ねえ、僕とあの子は似ていないね。なんの話だ。そこをどけ。
 あの子のことだよ、あの子はかわいいねえ、あの子が生まれたときのきみの顔ったらなかったよ。そこでようやく彼は、幻影が言うあの子が誰なのか理解した。春に生まれた息子のことだ。まだ赤ん坊で、顔立ちなどいくらでも変わるだろうが、しかし息子は確かに、彼には似てなかった。そして、妻にも。
 似てないよね、ぜんぜん、と幻影は続ける。何が言いたい、と彼は震える手で敵兵を指した。そこをどけ。おれは早く、詰所にいる同僚たちにこれを知らせなければならない。幻影は気にする様子もなく、かわいらしく小首をかしげて見せた。わかっているくせに。何を? 僕が言いたいことをさ。
 わかっていた。すべての不吉な予感は、本当でも嘘でもある。彼がその予感を感じたのは夏の終わり、部屋の戸を開けようとした瞬間だった。開けるな、と頭の後ろで何かが叫んだが、彼の手のほうが早かった。戸の先には妻と隣人がいて、二人は世間話をするには不要なほど顔を近づけあっていた。彼に気づくないなや、二人の距離はぱしんと離れ、おかえりなさい果物をいただいたんですよ、と言った妻に、彼はまばたきを繰り返すことしかできなかった。それから、ああ、ただいま、どうもありがとうございます、と返してしまったとき、彼は今見た光景が、本当なのか自分の妄想なのかが、永遠にわからなくなってしまったのだ。あの日見たと思った不吉な黒い影、盗賊の服の裾のように。
 あの敵兵もおれの妄想だって言いたいのか。彼はもはや、そちらに顔を向けることもできなくなっていた。そこに敵兵がいることもいないことも恐ろしかった。幻影は何も言わずに彼の顔を覗き込んでいる。彼は目を閉じてめまいに身を任せた。息子の顔、井戸に映る月影、少年のむちむちした手首、母の顔、隣人の顔、仕事道具、手のたこ、敵兵の頭布、鉦の響きが手を打つ感触。すべての不吉な予感。彼は突然顔を上げて立ち上がった。あの子が生まれた時のおれの顔ったらなかっただろう。だって本当に、本当にこころの底から嬉しかったんだ。彼はばちを振り上げ、五度鉦を叩いた。あれも幻覚だとして、ほうっておいていいわけがあるだろうか。彼は鉦が敵兵自身であるかのように全力で殴りつけた。俺は息子を守りたい、たとえ俺の子ではなかったとしても、俺の血をひいてふたたび狼を呼ぶとしても。
 町の明かりが一つ二つと増えていく。詰所からたいまつをもった男が飛び出してくるのが見えた。彼は同僚に向かって敵兵がいる方向を指しながら、力の限り吠えた。少年はいつの間にか消えていた。同僚が敵兵を追って駆け出していく背中を見ながら、彼は手のしびれを感じてばちを取り落とした。荒い息をつきながら座り込み、顔を覆う。指の隙間から、別の男がこちらに走ってくるのが見えて、彼は軽く手を振った。ふと井戸に目をやると、水面の月は跡形もなく消え去っていた。