好きなことの話

好きなことの話をします

初めての化粧の話

高校生のとき、文化祭で映画を撮った。ヤンキーという設定の女の子たちはみな化粧道具を持ち寄って、はしゃぎながら慣れない化粧を施した。クラスの女の子たちの何人かは口紅を塗っただけで大幅に可愛くなっていて目を見張ったが、私自身については、なんにも変わってないじゃん、と思った覚えがある。私はそのころ、自分の顔をよく見たことなんてなかったのだ。自分と同じ顔の人間とすれ違ったって分からなかっただろう。ただまあ、今になって思うと、アイシャドウが水色だった時点で最悪の出来だったと思われる。初めての化粧でうまく可愛くなった子はそのまま化粧を続け、私のようなタイプはすっぴんで通すことになった。

そのだいぶ後の国語の授業で、寺山修司のこんな言葉が紹介された。

「私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。顔をまっ白に塗りつぶした女には『たかが人生じゃないの』というほどの余裕も感じられます。」(青女論)

化粧をしている女の子たちは、この言葉を一刀両断した。「そんなことはひとつも考えていない、かわいいと思うからやってるだけ」というのである。そうだよな、と私も思った。

でも今ならわかる。あの日私たちは、虚構によって乗り切るべき現実なんてなかったのだ。私は自分の目の形を知らなかった、肌が汚いことを知らなかった、他人からどう思われていて、それをどう覆すことができるのか知らなかった。覆したいと思っていたって、それと化粧がなんの関係があるのか、考える手がかりもなかった。私たちには友達がいて、美しく泥臭い青春があり、幼くて健康だった。乗り切るべき現実は、勉強や親との関係や恋や友達や悪口や露出狂で、化粧とはなんの関係もないように見えた。

いま、毎朝鏡に向かって肌のくすみを一生懸命消しながら、青いアイシャドウのことを思い出す。自分の顔に気づいていなかったころ、口紅を塗るだけで美しかったあの友達のことを。

【SS】豆腐と永遠

え、い、え、ん。永遠?僕は思わず聞き返した。そうだよ、と高木は真顔で頷く。

「永遠って言った。今」

「えいえん」

僕の箸の下で冷奴が崩れている。背後の店員がいらっしゃいませ何名様でしょうかと叫んだ。

ドラマや映画っていうのは俺はどうしても好きになれないんだ、と高木が言ったのが始まりだった。「なにが好きになれないって、あの独り言だよ。こないだなんて、ヒロインが片思いの相手の前で『はあ、なんでこんな人好きになっちゃったんだろ……』ってつぶやくんだよ、そんなことありえないだろ、『えっ?』『あっ、ううん!なんでもない!』とか言って」「あるよね」僕は笑ってそう返した。しかし高木は僕の相槌など聞かずに、「お前の独り言みたいなのがほんとの独り言なんだよ」と続けたので、僕は笑いを曖昧にして冷奴の皿を引き寄せた。

僕の独り言のくせは、いまに始まったことではない。外ではなんとか堪えているのだが、気を許した人の前だと、無限に独り言が出てしまう。恥ずかしいけれど、仕方ない、という開き直った気持ちもあって、親しくなりそうな人には先んじて「あのう、僕、めちゃくちゃ独り言言いますけど、気にしないでください。気になるなら怒ってください」と言っている。最初怪訝そうな顔をしていた友人未満の彼らは、やがて僕の独り言を聞いて納得し、多くの人は離れ、何人かはぐっと距離を詰めてきた。その、ぐっと距離を詰めてきたうちの一人が高木だ。

「お前の独り言のいいところは意味がまったくないことだ」「困るところでもある」「お前が困るかどうかは聞いていない」高木はときどき横暴だ。「お前、あれはなんなの、自分で言ってて気づかないの?」「気づくよ、いくらなんでも。そうじゃないと仕事ができない」「さっきのは?」「さっきの?」そして高木は神妙な顔で、一文字ずつ声に出したのだ。「え、い、え、ん」「永遠?」「そうだよ、永遠、って言った。今」「えいえん」

たしかに、映画やドラマで脈絡もなく「永遠」と呟く登場人物がいたら物語に支障があるだろう。「なんで永遠なんて言ったんだろ」「永遠のこと考えてたわけじゃないんだろ」「冷奴のことしか考えてなかったよ」「ああ、その前に豆腐豆腐とも言ってたな」「そっちは覚えてる」「そういうのがいいんだよなあ」

いったいなにが良いのか分からずに僕は黙り込む。黙り込む、というのは比喩表現で、僕の口からはまた、ぐちゃぐちゃ、と独り言が漏れている。粉々になった豆腐を箸の先で慎重に持ち上げて口に運ぶ。運ばれてきた唐揚げがだしつゆの香りを一気にかき消した。高木は大皿に乗った唐揚げを独占しながら、「お前覚えてるか、棚田先生の授業」と言う。「心理学?」「そう。フロイトか誰かが、言い間違いはその人の無意識を反映するって言ってただろ。それをいつも思い出すんだ」「僕の独り言で?」「そう」

僕が唐揚げに箸を伸ばすと、高木は心底残念そうな顔をして皿から手を離した。不本意、と僕の口から言葉が落ちる。それから、ジークムントフロイト、とも。高木はそのどちらにも返事をせず、「そうだな、あれだよ、つまり……引き出しのことを考えるんだ、俺は」と箸を空中に彷徨わせる。「引き出し」僕は引き出しを引き出す真似をしてみせる。実家の学習机についている木製の引き出しだ。空想の引き出しは出しすぎてがたんと膝に落ちてきたので、僕もがたんと言ってしまう。

「この間俺は、純粋芸術と自己表出を言い間違えた」「ぜんぜん違うじゃないか」「そう、一文字も合ってないけど、俺の頭の中の同じ引き出しに入ってるんだよ、純粋芸術と自己表出が。たぶん同じ時期に覚えた言葉なんだよな。『芸術』と『美』らへんに共通点もある。あとどっちも普遍性に関する言葉だし」「いったいなんの話をしようとして言い間違えたんだ?」僕の疑問には答えず、高木も架空の引き出しを開けてみせる。「ジークムント・フロイトさんが言ってたニュースとジュースの取り違えは、同じ引き出しに入ってるんだというのを想像したんだ、棚田さんの授業で。ニュースとジュースとか、純粋芸術と自己表出は分かるだろ、同じ引き出しに入ってる意味が。まあ他の人には分からないかもしれないけど、俺には分かる。でもお前の引き出しは」と高木は突然唐揚げを頬張って、五秒ほどの沈黙が降りる。「豆腐と永遠がいっしょに入ってるんだ」

「豆腐と永遠」

僕は豆腐と永遠が実家の引き出しに入っているのを想像した。ほこりが、と僕はつぶやいている。ほこりがはいる。豆腐に。

「もう一個教えとくと、お前その前は久留里線って言ってた」「く、久留里線」「最高だよ。純粋な独り言って感じがする」高木は唐揚げの皿をいつのまにか空にして、架空の引き出しを開けてにやにや笑っている。ポテトサラダは何と一緒に入っているのか知りたくて、僕は店員を呼び止めた。

‪> つい独り言を言ってしまう人の話を。 http://odaibako.net/detail/request/5a76c499a6a448539354650baa1260fb #odaibako‬

【SS】月影

twitterでお題を募集したら長文が来たので続きを書きました。「----------」から「----------」までがお題部分です。

 

----------

櫓の下には井戸が拵えてあって、それは大抵木蓋で閉じられているものなのだが、時折町人の誰かが閉め忘れることがあるらしく、こうして見張の夜番で櫓に登り、月が高く昇るころに見下ろすと、澄明な水を湛えた水面に見事な月が浮かぶのを見ることがある。
表面を叩いてもいない急造の櫓の上で毛羽立った木に座り込み、町を見やる。夜分であって静まり返ってはいるが、しかしまだ寝付くには早いのか、細く灯りの漏れる家が多い。立って反対側の森へ視線を移せば稜線のなだらかな波形と、渓谷部を北へ伸びる交易路の波形とが放射するように広がっている。
いくつかの息を吐いて、晴れ晴れとした夜空をしばし眺める。もう更けるかのような明るさが大地を照らし、空気は海と同じ深さを感じさせる。
木々の隙間に目を凝らせば葉の動きまで見つけられることに気がつくと、湯のような安堵が腰のあたりまで湧いて出てくる。こう明るければ、敵も夜襲などはかけないだろう。
また梯子に足を投げ出して、井戸の底に浮いた月を見る。先ほどからやや横に位置を変えた月の更に横に、やはり月のように丸い顔がこちらをじっと見上げているのだった。

----------

 

 それが幻覚なのはとうの昔にわかっていた。こうして櫓の上に座っていると、その少年は必ずそこにいてこちらを見上げているのだが、そんな顔の少年はこの町のどこにもいない。丸い頬は焼きたてのパンに似てやわらかそうで、腕や足も同様にふっくらとしている。低い鼻は上を向いていて鼻孔が目立ち、目は肉に押されて細く垂れている。それは少年のころの彼自身だった。
 初めての不寝番のときは闇夜だった、と彼は思い出す。町の明かりが消えるころには彼はほとんどパニックだった。櫓が風で揺れているのか、自分の心臓が暴れているのか、それても敵が攻めてきたのかの区別もつかず、膝を抱えてぶるぶる震えているときに、その少年は現れた。井戸のそばをひょこひょこと歩く影を見てすわ敵の斥候かと立ち上がると、櫓のきしむ音にその影は振り返り、手を振ってみせた。その丸いシルエット、小さすぎる身長は、どう見ても兵士のそれではない。兵士どころか、あれはもしや、と彼が息をのんで見守る中で、影は闇に溶けるように消えていった。
 以来、彼が見張りに立つたび、その少年は井戸のそばでこちらを見上げている。彼は井戸に、それから少年に、町の家々に視線を移し、自分の手をかざした。節くれだった指にはあちこちにたこができて、立派な職人のそれだ。とてもあの丸々とした少年と自分とが同一人物だとは思うまい。今年の春、戦争が始まると同時に生まれた息子は自分に似ていなくて、彼はそのときひそかに安堵したものだ。
 そうだよね、と耳元で声がして彼は飛び上がった。月のように丸い顔が、月明かりに照らされてつやつやと光っている。純朴そうな瞳が彼を見据えて、そうだよね、あの子は僕と全然似ていない、とうなずく。彼は肋骨を叩く心臓を抑えて、ああそうだ、と彼は震える声を漏らした。幻覚が櫓に上がってきたのは初めてだった。
 幻覚は物珍しそうに町や森を見渡している。町の明かりは、いつの間にかずいぶん少なくなっていた。強くなってきた風にきしむ櫓の音に紛れて、少年は確かにつぶやいた。あっちから来るよ。
 やめろ、と彼は大声を出した。明るい空間は声をすぐ吸い取って、音は地上まで届かずに消えた。幻覚は不思議そうに首をかしげて、同じ言葉を繰り返す。あっちから来るよ。じきに来るよ。彼はほとんど泣きたいような気持で耳をふさいで体を折り曲げた。
 ほんのいたずらだった。いたずらというほどの意図があったわけでもない。ただなんとなく、本当になんとなく、少年のころの彼は言ってみたのだった。あっちから来るよ。意味ありげな顔をして、適当な方向を指さした。その先に何があるのか、そのころの彼は知らなかった。ちょうど前の週にその先にある町が盗賊たちに襲われて、大人たちがみな不安がっていることも。この子は何かを見たのかもしれない。そういえばこの子の祖母は巫女だった、直感があるんじゃないか。いやそもそも何かあるかはともかく、隣町のことは本当なのだから、警戒するに越したことはない。大人たちは見張りを立てることにして、そして数日後の夜、気が立った見張りたちと酔っ払いとがもみ合いになり、もみ合いではすまない騒ぎになり、一人が鍬を腹に突き立てられ、一人が壁に頭をつぶされて死んだ。仲間割れがあっちから来たのだった。
 彼はしばらくのあいだ、何が起こったのかよく知らずにいた。嘘をついたこともよくわかってはいなくて、実際に何かを見たような気がしていた。木の陰に盗賊の服の裾を見たような、不吉な黒い影が地面に渦巻くのを見たような。二人は知らない人間だったし、葬儀からは遠ざけられていたから、知る機会がなかったのだ。盗賊はついに来なかった。彼はつまり、一度目で狼が来てしまった狼少年だった。
 自分が引き起こしたのは何だったのか知るころ、丸い体型はだんだんと細くなり、筋骨隆々とはいかないが十分に立派な体躯の青年になった。彼の過剰なまでの慎重さは誰もが笑い、冗談の種にしたが、彼の本心に気づくものはいなかった。彼はこう思っていたのだ、俺が見るものはすべて幻かもしれない、すべての不吉な徴は、本当でも嘘でもあるのだと。
 少年の彼は櫓から身を乗り出して森のほうを見ている。ねえ、あっちを見てみなよ、と少年は言う。彼は逆らう気力もなく顔を上げて、心臓が止まるほど強く脈打つのを感じた。こんなに明るい月の夜に、敵が来るはずがない。立ち上がって、相手からもこちらが見えることを思い出してまたしゃがむ。木の陰、葉の間に、確かに人間がいる。長物は持っていないが、ゆるいズボンの形、頭に巻いた布の色は、確かに敵兵のものだ。
 彼はとっさに鉦のばちをつかんだ。訓練で何度も繰り返した、五回打って一息休み、五回打って一息休む、それが敵兵発見の合図だった。ばちが鉦をたたく響きを掌にはっきり感じたのに、鉦は鳴っていなかった。彼の手は震えて、鉦を叩くどころかばちをしっかり持つこともままならない。焦るうちに少年が彼の顔を下から覗き込んできた。ねえ、僕とあの子は似ていないね。なんの話だ。そこをどけ。
 あの子のことだよ、あの子はかわいいねえ、あの子が生まれたときのきみの顔ったらなかったよ。そこでようやく彼は、幻影が言うあの子が誰なのか理解した。春に生まれた息子のことだ。まだ赤ん坊で、顔立ちなどいくらでも変わるだろうが、しかし息子は確かに、彼には似てなかった。そして、妻にも。
 似てないよね、ぜんぜん、と幻影は続ける。何が言いたい、と彼は震える手で敵兵を指した。そこをどけ。おれは早く、詰所にいる同僚たちにこれを知らせなければならない。幻影は気にする様子もなく、かわいらしく小首をかしげて見せた。わかっているくせに。何を? 僕が言いたいことをさ。
 わかっていた。すべての不吉な予感は、本当でも嘘でもある。彼がその予感を感じたのは夏の終わり、部屋の戸を開けようとした瞬間だった。開けるな、と頭の後ろで何かが叫んだが、彼の手のほうが早かった。戸の先には妻と隣人がいて、二人は世間話をするには不要なほど顔を近づけあっていた。彼に気づくないなや、二人の距離はぱしんと離れ、おかえりなさい果物をいただいたんですよ、と言った妻に、彼はまばたきを繰り返すことしかできなかった。それから、ああ、ただいま、どうもありがとうございます、と返してしまったとき、彼は今見た光景が、本当なのか自分の妄想なのかが、永遠にわからなくなってしまったのだ。あの日見たと思った不吉な黒い影、盗賊の服の裾のように。
 あの敵兵もおれの妄想だって言いたいのか。彼はもはや、そちらに顔を向けることもできなくなっていた。そこに敵兵がいることもいないことも恐ろしかった。幻影は何も言わずに彼の顔を覗き込んでいる。彼は目を閉じてめまいに身を任せた。息子の顔、井戸に映る月影、少年のむちむちした手首、母の顔、隣人の顔、仕事道具、手のたこ、敵兵の頭布、鉦の響きが手を打つ感触。すべての不吉な予感。彼は突然顔を上げて立ち上がった。あの子が生まれた時のおれの顔ったらなかっただろう。だって本当に、本当にこころの底から嬉しかったんだ。彼はばちを振り上げ、五度鉦を叩いた。あれも幻覚だとして、ほうっておいていいわけがあるだろうか。彼は鉦が敵兵自身であるかのように全力で殴りつけた。俺は息子を守りたい、たとえ俺の子ではなかったとしても、俺の血をひいてふたたび狼を呼ぶとしても。
 町の明かりが一つ二つと増えていく。詰所からたいまつをもった男が飛び出してくるのが見えた。彼は同僚に向かって敵兵がいる方向を指しながら、力の限り吠えた。少年はいつの間にか消えていた。同僚が敵兵を追って駆け出していく背中を見ながら、彼は手のしびれを感じてばちを取り落とした。荒い息をつきながら座り込み、顔を覆う。指の隙間から、別の男がこちらに走ってくるのが見えて、彼は軽く手を振った。ふと井戸に目をやると、水面の月は跡形もなく消え去っていた。

年末年始が好きな話

 年末年始は好きですか。私はかなり好き。
 まずクリスマスが好き。雑貨屋さんやお菓子屋さんを見て回って、会いもしない友人あてのクリスマスプレゼントを探す。実際にクリスマス周辺に会う相手がいたら、ちょっとしたプレゼントを買っておく。いい匂いのせっけんとか、ただひたすらにパッケージがかわいいだけのお菓子とか。今年は友人たちと持ち寄りのクリスマスパーティーをして、一人二千円までのプレゼント交換をやったので、私はたいそうはりきった。悩みに悩んで、アイスクリーム専用のスプーンと、ハーゲンダッツのギフト券にした。友人からはアルガンオイルと葛湯をもらった。わたしたちはもう自分でパーティーができるのだ。
 それから仕事納めが好き。社会人二年目なので、まだ二回しかやっていないのだが、あんなに気持ちのいいイベントがあるだろうか。前日までに仕事をおおかた片づけて、午前中のうちに大掃除。会社のおごりのお寿司を食べてビールを飲み、よいお年をと言ってオフィスをあとにする。おととしは心の赴くままに上野まで行ってアメ横の人だかりに揉まれ、ミスドでお茶を飲んだ。去年は新宿のブックファーストで吟味に吟味を重ねた衝動買いをした後、英国屋でケーキを食べた。買ったのは雪舟えまの『凍土二人行黒スープ付き』。これが本当に正解だった。
 お正月の準備も好き。我が家ではおせちを作るのだが、今年は祖母の家で年越しをするのでそんなにたくさんのものは作らなかった。人参を梅の飾り切りにした煮物、スモークサーモンと大根のマリネ、栗きんとん。野菜を刻むのは楽しい。子供のころ、玉ねぎをむいたりコンソメのパッケージをはがしたりしかできなかったころ、包丁は憧れだった。今でもたいしてうまくは扱えないけれど、手を動かして刻んでいると、料理をしている、という満足感が広がってくる。
 年越しはたいしたことはしない。年越しそばにのせるのはニシン、というのは我が家だけの風習だと初めて知った。紅白を見て、2355年越しスペシャルで年越し。あけましておめでとうございます。寝る。
 起きる。私はお雑煮も大好き。本当は正月以外も食べたい。おせちをつまんでだらだらする。子供のころは、大晦日と元日にははっきりとした差があって、世界じゅうがぱっと明るくなるような気がしたけれど、今日は昨日の続きだなあ、と思いながらポケモンGOに出る。冬なのにあたたかいせいかもしれない。ポッポを捕まえまくるが、メタモンは出ない。
 何日かはおせちやお餅を食べているけれど、父がふいにホットケーキを焼く。カレーも食べる。それから仕事初め。会社の人たちと初詣に行って、まるっきり忘れてしまった仕事の続き。新宿で食べたケーキはとても遠い気がする。成人の日が終わるころには、正月気分は抜けている。私はコーディングをしたり、つまらない書類を作ったり、営業の電話をあしらったりする。セールのうちにセーターを何枚か買う。
 そういうわけで、私の年末年始は終わる。
 仕事は嫌いじゃなく、ありがたいことにたいした不満はない。でも、この世に仕事納めがあってよかった。夏休みの始まりとも、ゴールデンウイークの始まりともまた違う、あの高揚感が、もう恋しい。

【SS】ねどこ-2 楽園

 死後の世界が発見されて五年になる。
 そこに持ち込めるものは少ない。電子機器や、金属製のもの、革製品、それから薬品のたぐいは持ち込みを禁止されている。それぞれ、なにやら問題があるのだそうだ。だから私は、恋人にもらった時計を何年ぶりかに外してロッカーにいれ、思い出の写真を何枚かプリントアウトして懐に入れてやってきた。
 生前の恋人と決めておいた待ち合わせ場所に転送してもらうと、暖かく湿った空気が肺に流れ込んできた。死後の世界というのは空気も違うものだな、と思いながら目を開けると、それは誤解なのが分かった。暗い空間に、たくさんの観葉植物が置いてあるのだ。磨き上げられたバーカウンターの横に、あるいは奥に、様々な色やかたちの植物が身を寄せ合うように配置され、枝葉を伸ばしている。植物も呼吸をします、という理科の教科書の一文を思い出した。木の鉢をビニールに包み一晩置いて、二酸化炭素の濃度の変化を測る。その二枚並んだ写真のうち、一夜明けたほうのビニール袋は白く結露していた。私たち同様、植物の吐く息は水分をたっぷり含んでいる。そのせいか、人気はないのに、しんとした感じはしない。
 バーカウンターのほうに歩いて行くと、カウンターの最も端の席に、老女が座っているのが見えた。老女は少し背中を曲げて眠り込んでいる。その前にはコーヒーポットが静かに湯気を立てていた。
 ポットを手にとってカップに注ぐと、コーヒーの香りが漂っていた植物の匂いを一瞬かき消した。その香りに、おや、と老女が目を覚ます。私からカップを受け取って、老女は私の目の奥を覗き込んだ。灰色の目だった。
「ここではコーヒーが冷めないのよ。知っていた?」
 いいえ、と答えながら、私はもう一方のカップにコーヒーを注いだ。コーヒーは確かに淹れたてのように熱く、しかしポットやコンロの類は周りには見当たらなかった。その代わり、ありとあらゆるものが老女のそばに寄り添っていた。真新しいリカちゃん人形、パンプス、使い捨てカメラ、猫の置物、古いリュックサック、ペンネの詰まった瓶、ボタン、傘、スマートフォンのケース。ひとつもほこりをかぶっていない。
「――に会いにきたんでしょう?」
 老女は私の恋人の名前を言った。はい、と言うと、老女は何度か頷いた。「そうだと思った。あの子、もうじき来るわ。遅刻なんて、いけないわね、限られているんでしょう? ここにいられる時間は」
そうですね、と時計を見ようとして、手首が軽いのを思い出した。仕方なく、「半日と言われています。でも、さっき来たばかりですから」と手を振る。
「砂糖は?」
「けっこうです。ありがとう」
「あなた、気にしないのね」
 首をかしげると、老女は小さな声で笑った。「よもつへぐいってあるでしょう? あれを気にする人が多いのよ、コーヒー勧めても飲まなかったり、飲んでからあっと言ったり」
「ああ……大丈夫だと証明されていますからね」
「証明されていても、こんなところで、なににもならないと思う人もまあ、いるわね」
 老女の喋り方には奇妙な抑揚があった。句読点が不思議なところで挟まって、息を吸うタイミングがずれる。私はコーヒーをすすり、このコーヒーは持ち帰れるのかなと思った。持ち込みだけではなく、持ち帰りも規制が厳しいのだ。胃の中まで調べられるかもしれない。
 老女はそれ以上何も言わず、手近にあったコーヒーミルを手にとって、矯めつ眇めつ眺めはじめた。それを見るともなしに見ながら、明日の会社のことを考える。あの乾燥した明るい部屋。こことは大違いだ。私は身をひねって光源を探したが、影が折り重なって光の形を成すだけで、電気のたぐいは見当たらなかった。
「あなたは……おいくつ?」
 老女がふいに口を開いた。死後の世界にあってさえ、沈黙に耐えかねて世間話をしようとする姿がすこしおかしかった。私が歳を答えると、老女はコーヒーミルのハンドルをゆっくり一回転させて、「こういうものは、知らないわね。あなたのような歳の人は」とつぶやいた。
「いや、そんなことは。それのほうがよく挽けるという人もいますし」
「そう? そういえば、使い捨てカメラ、あれもね、若い人が面白がるって言うわね。何が撮れるかわからないから」
「使い捨てカメラは……使ったことないです」
 存在は知っていた。緑色につやつやと光るパッケージ。老女はそれを手に取って、上部の穴をちらと覗き込み、「あと2枚だわ」とつぶやきながらダイヤルをがりがりと回した。その動作を行ったことのない私の親指に、その感触がはっきりと蘇った。
「生きていたとき、生活も旅行も愛していたわ。コーヒーを冷める前に飲み干すのも、換気扇を掃除するのも、飛行機の切符を取るのも、知らない土地の駅のホームで夕日の写真を撮るのも好きだった。でも」
 老女は安っぽい印刷の踊る表面をなぞりながら呟いた。
「ここには生活はないのね。旅行もない。これ、どうやって現像するか知っている? コンビニに持って行くのよ、でもここにはコンビニはないから」
 老女は意外なほど素早い動作でこちらにレンズを向けた。私はなぜか知っている、その小さい窓から覗き込む歪んだ景色。小さすぎて片目をつぶらないと焦点が合わない。その小さな窓、プラスチックのレンズ越しに私と老女の視線が絡み合い、大きな音でシャッターが落ちた。私の驚きがフィルムに残された。
「これはね、撮っても、見られないの」
 私は突然コーヒーカップを置いた。暖かい空気のかたまりが私の肩と膝にそっとおおいかぶさり、たちまち全身へとその手を伸ばした。最初から空気は暖かったのに。植物の吐く息に、空気は暖かく湿って、いや、これは、眠気だ。眠気は私の内側から来たものなのに、どうして体を重くするのだろう?
 老女はわたしに使い捨てカメラを手渡した。私はがりがりとダイヤルを回し、バーカウンターに肘をついてカメラを顔の前にかざした。体重をあずけた右脇腹に、カウンターがすこしくいこむ。体重はどんどんそちらのほうへなだれていく。
 左目をつぶると、老女が二杯目のコーヒーを注いでいる姿が歪んで見えた。恋人はまだ来ない。生活も旅行も愛していたのは、私の恋人ではなかったか?
 シャッターボタンは思いの外重い手触りでばしんと落ちた。これっきり、という音がした。


楽園で寝る。最後の使い捨てカメラ。
https://shindanmaker.com/509717

【SS】ねどこ-1 IKEA

 それは不思議なアルバイトだった。眠るのだ。
 いつでもどこでも寝られるのだけが取り柄の僕に仕事なんて見つかるはずないよと准教授に言ったらすぐに学生課から募集要項をもらってきたのでおどろいた、冗談を言うような人ではないので。とにかくどこでも寝られる人がほしいらしいんですよと准教授は言った(僕と違って敬語の使える人なのだ)。いったいどういう仕事ですかたとえばカフェイン飲料のテスターとか? いやIKEAです。IKEA? 行ったことありますか? ないなあ。僕もないです。家具屋でしょたしか北欧の。ええそれでベッドで寝るのが仕事ですって。寝るのが? そう寝るのが。
 准教授が冗談を言うような人ではないにしても募集主が冗談を言うような人なのではないか、という僕の憶測ははずれた。ばかみたいに広い駐車場を突っ切って面接の時間に遅れそうになった僕を待ち受けていたのはごく純朴そうな男性で、こんな言い方はなんだけれども北欧の家具屋にぴったり、北欧の家具屋以外に就職先はなかろうという雰囲気のひとだった。駐車場に対して狭すぎる事務所で今にも崩れそうな書類の山に怯えながら、北欧の家具屋にしか就職できない面接官は、それで、あのう、どこでも寝られるとか、とゆっくり聞いた。ハイと僕が元気よく答えると(准教授が元気が大事とアドバイスをくれたので)面接官は今ここで寝られますかと尋ねてきた。僕はもう一度元気よくハイと答えて目を閉じた。
 ……。
 目を覚ますと二時間経っていた。やけに手触りのいい毛布をかけられていた。ふらっと立ち上がるとパイプ椅子の座面にくっきりと僕の尻のあとがついている。面接官が立ち上がった僕に気がついてノートパソコンから顔を上げた。採用です。来週から来られますか? 僕はとりあえず、この毛布もIKEAのなの、と聞いた。
 要するに僕はディスプレイのひとつだった。面接官は僕を寝具売り場に案内した。そこはベッドの海だった。病院にあるみたいなそっけないパイプ製のものから、小さな子供がほしいと泣き喚くであろうロマンチックなピンク色のもの、一見ソファにしか見えないが感動的な展開を見せるものまで。僕は支給された制服(白いパイピングの紺色のパジャマ。これも気に入ってあとで自分で買った)を着て思わずわーっと叫んだ。僕はまず最もふかふかした白いふとんに飛び込み、高い天井を見上げた。まったく笑ってしまうくらい高い天井なのだ。面接官からの指示は、なるべく日替わりで、全部のベッドで寝てください、ということと、4時間ごとに起きて30分ずつ休憩を取ってください、ということだった。僕はハイと元気よく返事をして、初日は高いヘッドボードの紺色のベッドで眠った。
 どこでも寝られる人を、という募集要項の意味はすぐ分かって、まあ僕を起こそうとする人の多いことと言ったらなかった。子供がこわごわほおをつねりにきたり、カップルの男の方が耳元で大きな声を出してやめなよおと彼女に止められたりしているのはまあ無視してしまえばいいだけなのだが、ときどきどうしても僕の口から僕が寝ている理由を知りたがる人がいて、そういう人は本当に何度でも何度でもしつこく僕を起こした。僕は制服のパジャマの中から社員証を引っ張り出し、アルバイトなんですここで寝るのが仕事なんですディスプレイのひとつと思ってくださいと、丸覚えした敬語でまくし立ててぱたりと倒れてもう一度眠りについた。
 四時間に一度の休憩時間はIKEAじゅうを散歩した。これはほんとうだけどIKEAほど散歩に向いたところはない、ありとあらゆる家具と雑貨、小さな部屋の形にしつらえたディスプレイ。僕はダミーの本の中に本物がまぎれていないか調べ、ワイングラスを一個割って叱られ、無意味に広がる白い壁に額をつけ、大物の家具が集められたセルフサービスエリア担当のおじさんと仲良くなり、おもちゃのエリアで子供と張り合い、巨大なペンギンの形の抱き枕を抱えて意気揚々と職場へ戻った。なにしろ天井が高く空間が広い。僕はふとんに入って天井を見上げるたび、なんて気持ちのよいところなんだろうと思った。そしてペンギンを抱えてすぐ眠りに落ちた。
 たまに不思議なことがあった。IKEAは広い、本当に広くて外の様子なんて全然わからないのに、あるベッドに寝転がったとき雨の音が聞こえたのだ。サー……と長くどこまでも続く静かなノイズ、あっこれ何の音だっけ、知ってる、知ってる、と思う間に僕は眠りに落ち、起きた時にはもう子供のはしゃぎ声しか聞こえなかった。
 僕はそのベッドが気に入って、五回に一度はそこで寝るようになった。雨の音はすることもあれば、しないこともあった。音がするときは当たり、そうでなければはずれ。当たりの日は機嫌がよいのでホットドッグを食べてもいいいことにして、はずれの日は自分を慰めるためにセブンティーンアイスを食べた。雨の音によって眠りの質が変わったりすることはまあ全然なくて、ただ、これは本当にみんな一回体験してほしいんだけど、天井の高い、広い空間に寝転がると、自分が世界の真ん中で、全部を手に入れたみたいな気分になる、でも少しその空間が把握しきれないという不安があって、でも雨の音さえすれば、空間は僕を守る幕と化し、もう何にも心配はない気持ちになれるのだ。
 僕がセブンティーンアイスを全制覇したころ、バイトを首になった。北欧の家具屋以外就職先はなかろうと思っていたあの人もやめることにしたという。再就職先はあるのかと聞いたら、「富士山の山小屋に置いてもらうことになりました」と言い出したので僕はおおいに笑った。
 それから二十年が経つ。僕は五年前に結婚し、三年前に娘もでき、ばりばりに働く妻に生活費の一切を任せて子供の世話をしている。子供は不思議だ、ぜんぜん変だ。娘を笑わせるのが今一番楽しい。それで、妻がベッドを買い替えたいと言い出したとき、僕は強硬にIKEAを推薦した。娘にあの雨の音を聞かせてあげたくなったのだ。でももう二十年もたっていて、当然同じものは見つからない。富士山の山小屋に本当に彼がいるのかも確かめないまま二十年が経ってしまったし、准教授は准教授のまま去年肺がんで死んだ。僕はいまだに敬語が使えない。それでも僕はあれに似たものを探し出し、妻に嫌がられながら部屋のど真ん中に置いて、低い天井を眺めている。そして娘を抱いて眠る。僕は毎晩毎晩娘に語りかける。君は世界の真ん中にいて、全部が君の手の中にある。そして同時に、君はすべてから守られているんだよ、と。

 

 

IKEAで寝る。雨の音がする。
shindanmaker.com/509717

【SS】クミンシード

 私たちはここで別れ話をするだろう。
 壁一面に作りつけられた棚には、ぴったりとスパイスの瓶が並べられている。フェイクかしらと近づいてみたら、ラベルも中身もひとつひとつ違っていて驚いた。客席は暗めの間接照明なのに対して、厨房のほうは白々と明るい。大柄な男性に皿を手渡されたあなたが、こちらの暗がりへと歩いてきた。
「はい」
「ありがとう」
 私は微笑む。幾重にも重なり混ざり合ったスパイスの香りが胃をひと撫でした。それからバターの香り。黄色いバターの塗られたナンは皿からはみ出すほど大きい。
 あなたは一度厨房のほうに戻って、白い飲み物が入ったグラスを二つ持ってきた。今度は机に置くなり私の向かいに座る。あなたの腕は、身長にくらべてとても長い。ときどき、その長さを持て余しているように見える。
「ラッシーは店長のサービス。おいしいよ」
「ラッシー? マンゴーのやつ?」
「マンゴーのほうがよかった? でも、うちのはただのラッシーのほうがおいしいよ。カレーに合う」
 言って、あなたはストローに口をつける。「食べないの?」と聞くと、あなたは笑って「さっき食べた」と言った。私はうなずいてナンをちぎる。
 私は一目でこの店が気に入ってしまっていた。あなたが高校生のころから、五年以上アルバイトをしているこの店は、ほとんどあなたの一部に見える。
 いや、当然のことだが、この店の一部があなたなのだ。私は心の底で考えを改めた。あなたがこの店を気に入り、長く居る間に、店はあなたを取り込み、あなたは店の一部を成すことになった。隣り合って生えた木と蔓草が、絡まりあって互いの区別がつかなくなるように。
 付き合いだして、まだ間がない。その段階の男女がそうであるように、私たちはお互いの愛情の終わりを全く想像できないでいた。どこへ行っても楽しくて、連絡が来れば嬉しかった。嫌いなところはまだ見えず、好きなところは会うたび見つかった。そうして、どこか行きたいとこある、と聞かれたとき、迷いなく「バイト先に」と答えた程度には、私たちは心を許しあっていた。
 けれど私たちはここで別れ話をするだろう。いずれ、一年後か十年後か、私がここに通い慣れ、ほかの店員に顔を覚えられ、からかわれ、やがてからかわれることもなくなって、友情すら覚えてきたころに、私たちはここで別れるだろう。そして私はこの店のことを、あなたのことを抜きにしても大好きになっていたにもかかわらず、以降来られなくなってしまう。店員たちも残念がるけれど仕方ない。そういう人たちも一人辞め、二人辞め、店員がみな入れ替わるころには、店長も私のことを忘れている。
 ナンはぱりぱりと裂けて、私の思うのと違うかたちにちぎれた。大きすぎる。さらに半分にちぎってカレーを掬い、口にいれる。辛いだけでもない、しょっぱいだけでもない、複数種類の味が同時にして、私は少しの感嘆とともにカレー皿を見下ろす。指にこぼれたのを舐めとると、あなたがそれをじっと見ているのがわかった。
 あのころはちょっとした仕草もセクシーに見えたなとあなたは思う。指についたカレーを舐めとる仕草とか、手をはたいて粉砂糖を落とすところとか、スニーカーの紐を結びなおすのに、スカートを折りたたんで座る姿とか、焼き鳥屋のカウンターの中を覗こうとするときとか。見飽きることがなかった。それが、今はもう遠い、とあなたは思う。ベッドの上の姿も、全然セクシーじゃない姿もよく知って、自分にとっての魅力というのは、隠れているということだったとあなたは知る。そう思ったことに、あなたは少し失望する。こんなつまらないことを考えるようになったなんて。隠れているのがセクシー? あの頃と同じようにカレーを前に顔をほころばせる恋人と、別れ話をする日になって、自分がこんな人間だということを、思い知るようになるのだ。
「おいしい?」
 あなたは、現在のあなたは、私の顔を覗き込んで、目元だけで笑う。「おいしい」と笑顔で答えながら、私は今のあなたと、将来のあなたとを重ね合わせて、静かに苦しく思っている。私はこのカレーを食べながら、あなたはこのラッシーを飲みながら、この席で、こんな夜に、別れ話をするだろう。

 そう思ってたの。
 私が言うと、あなたは私の目を見たまま、何回か瞬きをした。「それは……」と、あなたは首をこっとんと左に倒す。「たしか、2回目か、3回目のデートのときの話?」
「そう」
 あなたは手にクミンシードの瓶を持っている。このあたりで一番遅くまでやっているスーパーのスパイス売り場には、閉店を知らせる音楽が流れはじめていた。急がなくちゃ、と言っていたあなたは、私の言葉を聞いて、完全に動きを止めている。その、驚いたときの無表情が、大学生のころと変わらない。私は微笑ましくなって、あなたの手から瓶を受け取った。
「あれから何回もあの店に行って、そのたびに思ってた。ここで別れ話をするって。ねえ、引っ越してから何年?」
「七年」
「そう、じゃあ七年前か、最後にあの店に行ったときもね、そう思ってた。ここに、なんでだかここに戻ってきて、別れ話をするんだって」
 手元の籠にクミンを入れると、あなたはぎくしゃくとその籠を私の手から受けとった。レジのほうに歩いて行きながら、「それは、どうして? 俺との付き合いが不安だった?」と聞く。そうじゃないの、と私は言いながら、腹のあたりを撫でる。でも、うまく説明できないの。
 あなたはしばらく黙っていたが、指輪のはまった左手で私の肩を軽く抱き寄せ、「でもまあ、それは本当にならなかったわけだ」と明るい声で言った。「そんな風に思ってたのに、十二年何事もなく過ぎたんだから」
「何事もなく? 本当に?」
 私はわざと意地悪な声を出した。あなたは目元だけで笑って、私の肩に肩をぶつけてくる。スーパーの照明は、あの日の厨房のように白々と明るい。私も笑った。
 でも、あの店はまだある。私たちが恋の始まりのときめきのままに見つめ合った、あの暗い店がある以上、私たちはやっぱりいずれそこで、別れ話をすることになるだろう。