好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】ねどこ-2 楽園

 死後の世界が発見されて五年になる。
 そこに持ち込めるものは少ない。電子機器や、金属製のもの、革製品、それから薬品のたぐいは持ち込みを禁止されている。それぞれ、なにやら問題があるのだそうだ。だから私は、恋人にもらった時計を何年ぶりかに外してロッカーにいれ、思い出の写真を何枚かプリントアウトして懐に入れてやってきた。
 生前の恋人と決めておいた待ち合わせ場所に転送してもらうと、暖かく湿った空気が肺に流れ込んできた。死後の世界というのは空気も違うものだな、と思いながら目を開けると、それは誤解なのが分かった。暗い空間に、たくさんの観葉植物が置いてあるのだ。磨き上げられたバーカウンターの横に、あるいは奥に、様々な色やかたちの植物が身を寄せ合うように配置され、枝葉を伸ばしている。植物も呼吸をします、という理科の教科書の一文を思い出した。木の鉢をビニールに包み一晩置いて、二酸化炭素の濃度の変化を測る。その二枚並んだ写真のうち、一夜明けたほうのビニール袋は白く結露していた。私たち同様、植物の吐く息は水分をたっぷり含んでいる。そのせいか、人気はないのに、しんとした感じはしない。
 バーカウンターのほうに歩いて行くと、カウンターの最も端の席に、老女が座っているのが見えた。老女は少し背中を曲げて眠り込んでいる。その前にはコーヒーポットが静かに湯気を立てていた。
 ポットを手にとってカップに注ぐと、コーヒーの香りが漂っていた植物の匂いを一瞬かき消した。その香りに、おや、と老女が目を覚ます。私からカップを受け取って、老女は私の目の奥を覗き込んだ。灰色の目だった。
「ここではコーヒーが冷めないのよ。知っていた?」
 いいえ、と答えながら、私はもう一方のカップにコーヒーを注いだ。コーヒーは確かに淹れたてのように熱く、しかしポットやコンロの類は周りには見当たらなかった。その代わり、ありとあらゆるものが老女のそばに寄り添っていた。真新しいリカちゃん人形、パンプス、使い捨てカメラ、猫の置物、古いリュックサック、ペンネの詰まった瓶、ボタン、傘、スマートフォンのケース。ひとつもほこりをかぶっていない。
「――に会いにきたんでしょう?」
 老女は私の恋人の名前を言った。はい、と言うと、老女は何度か頷いた。「そうだと思った。あの子、もうじき来るわ。遅刻なんて、いけないわね、限られているんでしょう? ここにいられる時間は」
そうですね、と時計を見ようとして、手首が軽いのを思い出した。仕方なく、「半日と言われています。でも、さっき来たばかりですから」と手を振る。
「砂糖は?」
「けっこうです。ありがとう」
「あなた、気にしないのね」
 首をかしげると、老女は小さな声で笑った。「よもつへぐいってあるでしょう? あれを気にする人が多いのよ、コーヒー勧めても飲まなかったり、飲んでからあっと言ったり」
「ああ……大丈夫だと証明されていますからね」
「証明されていても、こんなところで、なににもならないと思う人もまあ、いるわね」
 老女の喋り方には奇妙な抑揚があった。句読点が不思議なところで挟まって、息を吸うタイミングがずれる。私はコーヒーをすすり、このコーヒーは持ち帰れるのかなと思った。持ち込みだけではなく、持ち帰りも規制が厳しいのだ。胃の中まで調べられるかもしれない。
 老女はそれ以上何も言わず、手近にあったコーヒーミルを手にとって、矯めつ眇めつ眺めはじめた。それを見るともなしに見ながら、明日の会社のことを考える。あの乾燥した明るい部屋。こことは大違いだ。私は身をひねって光源を探したが、影が折り重なって光の形を成すだけで、電気のたぐいは見当たらなかった。
「あなたは……おいくつ?」
 老女がふいに口を開いた。死後の世界にあってさえ、沈黙に耐えかねて世間話をしようとする姿がすこしおかしかった。私が歳を答えると、老女はコーヒーミルのハンドルをゆっくり一回転させて、「こういうものは、知らないわね。あなたのような歳の人は」とつぶやいた。
「いや、そんなことは。それのほうがよく挽けるという人もいますし」
「そう? そういえば、使い捨てカメラ、あれもね、若い人が面白がるって言うわね。何が撮れるかわからないから」
「使い捨てカメラは……使ったことないです」
 存在は知っていた。緑色につやつやと光るパッケージ。老女はそれを手に取って、上部の穴をちらと覗き込み、「あと2枚だわ」とつぶやきながらダイヤルをがりがりと回した。その動作を行ったことのない私の親指に、その感触がはっきりと蘇った。
「生きていたとき、生活も旅行も愛していたわ。コーヒーを冷める前に飲み干すのも、換気扇を掃除するのも、飛行機の切符を取るのも、知らない土地の駅のホームで夕日の写真を撮るのも好きだった。でも」
 老女は安っぽい印刷の踊る表面をなぞりながら呟いた。
「ここには生活はないのね。旅行もない。これ、どうやって現像するか知っている? コンビニに持って行くのよ、でもここにはコンビニはないから」
 老女は意外なほど素早い動作でこちらにレンズを向けた。私はなぜか知っている、その小さい窓から覗き込む歪んだ景色。小さすぎて片目をつぶらないと焦点が合わない。その小さな窓、プラスチックのレンズ越しに私と老女の視線が絡み合い、大きな音でシャッターが落ちた。私の驚きがフィルムに残された。
「これはね、撮っても、見られないの」
 私は突然コーヒーカップを置いた。暖かい空気のかたまりが私の肩と膝にそっとおおいかぶさり、たちまち全身へとその手を伸ばした。最初から空気は暖かったのに。植物の吐く息に、空気は暖かく湿って、いや、これは、眠気だ。眠気は私の内側から来たものなのに、どうして体を重くするのだろう?
 老女はわたしに使い捨てカメラを手渡した。私はがりがりとダイヤルを回し、バーカウンターに肘をついてカメラを顔の前にかざした。体重をあずけた右脇腹に、カウンターがすこしくいこむ。体重はどんどんそちらのほうへなだれていく。
 左目をつぶると、老女が二杯目のコーヒーを注いでいる姿が歪んで見えた。恋人はまだ来ない。生活も旅行も愛していたのは、私の恋人ではなかったか?
 シャッターボタンは思いの外重い手触りでばしんと落ちた。これっきり、という音がした。


楽園で寝る。最後の使い捨てカメラ。
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【SS】ねどこ-1 IKEA

 それは不思議なアルバイトだった。眠るのだ。
 いつでもどこでも寝られるのだけが取り柄の僕に仕事なんて見つかるはずないよと准教授に言ったらすぐに学生課から募集要項をもらってきたのでおどろいた、冗談を言うような人ではないので。とにかくどこでも寝られる人がほしいらしいんですよと准教授は言った(僕と違って敬語の使える人なのだ)。いったいどういう仕事ですかたとえばカフェイン飲料のテスターとか? いやIKEAです。IKEA? 行ったことありますか? ないなあ。僕もないです。家具屋でしょたしか北欧の。ええそれでベッドで寝るのが仕事ですって。寝るのが? そう寝るのが。
 准教授が冗談を言うような人ではないにしても募集主が冗談を言うような人なのではないか、という僕の憶測ははずれた。ばかみたいに広い駐車場を突っ切って面接の時間に遅れそうになった僕を待ち受けていたのはごく純朴そうな男性で、こんな言い方はなんだけれども北欧の家具屋にぴったり、北欧の家具屋以外に就職先はなかろうという雰囲気のひとだった。駐車場に対して狭すぎる事務所で今にも崩れそうな書類の山に怯えながら、北欧の家具屋にしか就職できない面接官は、それで、あのう、どこでも寝られるとか、とゆっくり聞いた。ハイと僕が元気よく答えると(准教授が元気が大事とアドバイスをくれたので)面接官は今ここで寝られますかと尋ねてきた。僕はもう一度元気よくハイと答えて目を閉じた。
 ……。
 目を覚ますと二時間経っていた。やけに手触りのいい毛布をかけられていた。ふらっと立ち上がるとパイプ椅子の座面にくっきりと僕の尻のあとがついている。面接官が立ち上がった僕に気がついてノートパソコンから顔を上げた。採用です。来週から来られますか? 僕はとりあえず、この毛布もIKEAのなの、と聞いた。
 要するに僕はディスプレイのひとつだった。面接官は僕を寝具売り場に案内した。そこはベッドの海だった。病院にあるみたいなそっけないパイプ製のものから、小さな子供がほしいと泣き喚くであろうロマンチックなピンク色のもの、一見ソファにしか見えないが感動的な展開を見せるものまで。僕は支給された制服(白いパイピングの紺色のパジャマ。これも気に入ってあとで自分で買った)を着て思わずわーっと叫んだ。僕はまず最もふかふかした白いふとんに飛び込み、高い天井を見上げた。まったく笑ってしまうくらい高い天井なのだ。面接官からの指示は、なるべく日替わりで、全部のベッドで寝てください、ということと、4時間ごとに起きて30分ずつ休憩を取ってください、ということだった。僕はハイと元気よく返事をして、初日は高いヘッドボードの紺色のベッドで眠った。
 どこでも寝られる人を、という募集要項の意味はすぐ分かって、まあ僕を起こそうとする人の多いことと言ったらなかった。子供がこわごわほおをつねりにきたり、カップルの男の方が耳元で大きな声を出してやめなよおと彼女に止められたりしているのはまあ無視してしまえばいいだけなのだが、ときどきどうしても僕の口から僕が寝ている理由を知りたがる人がいて、そういう人は本当に何度でも何度でもしつこく僕を起こした。僕は制服のパジャマの中から社員証を引っ張り出し、アルバイトなんですここで寝るのが仕事なんですディスプレイのひとつと思ってくださいと、丸覚えした敬語でまくし立ててぱたりと倒れてもう一度眠りについた。
 四時間に一度の休憩時間はIKEAじゅうを散歩した。これはほんとうだけどIKEAほど散歩に向いたところはない、ありとあらゆる家具と雑貨、小さな部屋の形にしつらえたディスプレイ。僕はダミーの本の中に本物がまぎれていないか調べ、ワイングラスを一個割って叱られ、無意味に広がる白い壁に額をつけ、大物の家具が集められたセルフサービスエリア担当のおじさんと仲良くなり、おもちゃのエリアで子供と張り合い、巨大なペンギンの形の抱き枕を抱えて意気揚々と職場へ戻った。なにしろ天井が高く空間が広い。僕はふとんに入って天井を見上げるたび、なんて気持ちのよいところなんだろうと思った。そしてペンギンを抱えてすぐ眠りに落ちた。
 たまに不思議なことがあった。IKEAは広い、本当に広くて外の様子なんて全然わからないのに、あるベッドに寝転がったとき雨の音が聞こえたのだ。サー……と長くどこまでも続く静かなノイズ、あっこれ何の音だっけ、知ってる、知ってる、と思う間に僕は眠りに落ち、起きた時にはもう子供のはしゃぎ声しか聞こえなかった。
 僕はそのベッドが気に入って、五回に一度はそこで寝るようになった。雨の音はすることもあれば、しないこともあった。音がするときは当たり、そうでなければはずれ。当たりの日は機嫌がよいのでホットドッグを食べてもいいいことにして、はずれの日は自分を慰めるためにセブンティーンアイスを食べた。雨の音によって眠りの質が変わったりすることはまあ全然なくて、ただ、これは本当にみんな一回体験してほしいんだけど、天井の高い、広い空間に寝転がると、自分が世界の真ん中で、全部を手に入れたみたいな気分になる、でも少しその空間が把握しきれないという不安があって、でも雨の音さえすれば、空間は僕を守る幕と化し、もう何にも心配はない気持ちになれるのだ。
 僕がセブンティーンアイスを全制覇したころ、バイトを首になった。北欧の家具屋以外就職先はなかろうと思っていたあの人もやめることにしたという。再就職先はあるのかと聞いたら、「富士山の山小屋に置いてもらうことになりました」と言い出したので僕はおおいに笑った。
 それから二十年が経つ。僕は五年前に結婚し、三年前に娘もでき、ばりばりに働く妻に生活費の一切を任せて子供の世話をしている。子供は不思議だ、ぜんぜん変だ。娘を笑わせるのが今一番楽しい。それで、妻がベッドを買い替えたいと言い出したとき、僕は強硬にIKEAを推薦した。娘にあの雨の音を聞かせてあげたくなったのだ。でももう二十年もたっていて、当然同じものは見つからない。富士山の山小屋に本当に彼がいるのかも確かめないまま二十年が経ってしまったし、准教授は准教授のまま去年肺がんで死んだ。僕はいまだに敬語が使えない。それでも僕はあれに似たものを探し出し、妻に嫌がられながら部屋のど真ん中に置いて、低い天井を眺めている。そして娘を抱いて眠る。僕は毎晩毎晩娘に語りかける。君は世界の真ん中にいて、全部が君の手の中にある。そして同時に、君はすべてから守られているんだよ、と。

 

 

IKEAで寝る。雨の音がする。
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【SS】クミンシード

 私たちはここで別れ話をするだろう。
 壁一面に作りつけられた棚には、ぴったりとスパイスの瓶が並べられている。フェイクかしらと近づいてみたら、ラベルも中身もひとつひとつ違っていて驚いた。客席は暗めの間接照明なのに対して、厨房のほうは白々と明るい。大柄な男性に皿を手渡されたあなたが、こちらの暗がりへと歩いてきた。
「はい」
「ありがとう」
 私は微笑む。幾重にも重なり混ざり合ったスパイスの香りが胃をひと撫でした。それからバターの香り。黄色いバターの塗られたナンは皿からはみ出すほど大きい。
 あなたは一度厨房のほうに戻って、白い飲み物が入ったグラスを二つ持ってきた。今度は机に置くなり私の向かいに座る。あなたの腕は、身長にくらべてとても長い。ときどき、その長さを持て余しているように見える。
「ラッシーは店長のサービス。おいしいよ」
「ラッシー? マンゴーのやつ?」
「マンゴーのほうがよかった? でも、うちのはただのラッシーのほうがおいしいよ。カレーに合う」
 言って、あなたはストローに口をつける。「食べないの?」と聞くと、あなたは笑って「さっき食べた」と言った。私はうなずいてナンをちぎる。
 私は一目でこの店が気に入ってしまっていた。あなたが高校生のころから、五年以上アルバイトをしているこの店は、ほとんどあなたの一部に見える。
 いや、当然のことだが、この店の一部があなたなのだ。私は心の底で考えを改めた。あなたがこの店を気に入り、長く居る間に、店はあなたを取り込み、あなたは店の一部を成すことになった。隣り合って生えた木と蔓草が、絡まりあって互いの区別がつかなくなるように。
 付き合いだして、まだ間がない。その段階の男女がそうであるように、私たちはお互いの愛情の終わりを全く想像できないでいた。どこへ行っても楽しくて、連絡が来れば嬉しかった。嫌いなところはまだ見えず、好きなところは会うたび見つかった。そうして、どこか行きたいとこある、と聞かれたとき、迷いなく「バイト先に」と答えた程度には、私たちは心を許しあっていた。
 けれど私たちはここで別れ話をするだろう。いずれ、一年後か十年後か、私がここに通い慣れ、ほかの店員に顔を覚えられ、からかわれ、やがてからかわれることもなくなって、友情すら覚えてきたころに、私たちはここで別れるだろう。そして私はこの店のことを、あなたのことを抜きにしても大好きになっていたにもかかわらず、以降来られなくなってしまう。店員たちも残念がるけれど仕方ない。そういう人たちも一人辞め、二人辞め、店員がみな入れ替わるころには、店長も私のことを忘れている。
 ナンはぱりぱりと裂けて、私の思うのと違うかたちにちぎれた。大きすぎる。さらに半分にちぎってカレーを掬い、口にいれる。辛いだけでもない、しょっぱいだけでもない、複数種類の味が同時にして、私は少しの感嘆とともにカレー皿を見下ろす。指にこぼれたのを舐めとると、あなたがそれをじっと見ているのがわかった。
 あのころはちょっとした仕草もセクシーに見えたなとあなたは思う。指についたカレーを舐めとる仕草とか、手をはたいて粉砂糖を落とすところとか、スニーカーの紐を結びなおすのに、スカートを折りたたんで座る姿とか、焼き鳥屋のカウンターの中を覗こうとするときとか。見飽きることがなかった。それが、今はもう遠い、とあなたは思う。ベッドの上の姿も、全然セクシーじゃない姿もよく知って、自分にとっての魅力というのは、隠れているということだったとあなたは知る。そう思ったことに、あなたは少し失望する。こんなつまらないことを考えるようになったなんて。隠れているのがセクシー? あの頃と同じようにカレーを前に顔をほころばせる恋人と、別れ話をする日になって、自分がこんな人間だということを、思い知るようになるのだ。
「おいしい?」
 あなたは、現在のあなたは、私の顔を覗き込んで、目元だけで笑う。「おいしい」と笑顔で答えながら、私は今のあなたと、将来のあなたとを重ね合わせて、静かに苦しく思っている。私はこのカレーを食べながら、あなたはこのラッシーを飲みながら、この席で、こんな夜に、別れ話をするだろう。

 そう思ってたの。
 私が言うと、あなたは私の目を見たまま、何回か瞬きをした。「それは……」と、あなたは首をこっとんと左に倒す。「たしか、2回目か、3回目のデートのときの話?」
「そう」
 あなたは手にクミンシードの瓶を持っている。このあたりで一番遅くまでやっているスーパーのスパイス売り場には、閉店を知らせる音楽が流れはじめていた。急がなくちゃ、と言っていたあなたは、私の言葉を聞いて、完全に動きを止めている。その、驚いたときの無表情が、大学生のころと変わらない。私は微笑ましくなって、あなたの手から瓶を受け取った。
「あれから何回もあの店に行って、そのたびに思ってた。ここで別れ話をするって。ねえ、引っ越してから何年?」
「七年」
「そう、じゃあ七年前か、最後にあの店に行ったときもね、そう思ってた。ここに、なんでだかここに戻ってきて、別れ話をするんだって」
 手元の籠にクミンを入れると、あなたはぎくしゃくとその籠を私の手から受けとった。レジのほうに歩いて行きながら、「それは、どうして? 俺との付き合いが不安だった?」と聞く。そうじゃないの、と私は言いながら、腹のあたりを撫でる。でも、うまく説明できないの。
 あなたはしばらく黙っていたが、指輪のはまった左手で私の肩を軽く抱き寄せ、「でもまあ、それは本当にならなかったわけだ」と明るい声で言った。「そんな風に思ってたのに、十二年何事もなく過ぎたんだから」
「何事もなく? 本当に?」
 私はわざと意地悪な声を出した。あなたは目元だけで笑って、私の肩に肩をぶつけてくる。スーパーの照明は、あの日の厨房のように白々と明るい。私も笑った。
 でも、あの店はまだある。私たちが恋の始まりのときめきのままに見つめ合った、あの暗い店がある以上、私たちはやっぱりいずれそこで、別れ話をすることになるだろう。

くまとパンケーキ

パンケーキが好きな女の子がいて、私はその子をくまちゃんと呼んでいる。くまというのは本名の一部で、だからたいしたあだ名ではないのだけど、ある時手帳に彼女との約束を書いていて、「くまとパンケーキ」という字面を見た瞬間に、ぱっとその呼び方に親しみがわいた。くまとパンケーキを食べに行く。絵本か。川上弘美か。

よく後輩とパンケーキ食べに行くよ、そうそう、パンケーキ専門店に、と言うと、「女子力〜」と言われることがある。揶揄まじりに言われることもある。でもおそらく、そう言う人がイメージする「パンケーキ好きな女の子」と、くまちゃんとは少し違っている。

パンケーキが運ばれてくると、くまちゃんはかならず「おいしそう」と平坦に言う。何度も足を運んでいる原宿レインボーパンケーキでも、乗ったことのない路線でたどり着いた住宅街の奥の純喫茶でも、かならず第一声は「わー」か「おいしそう」で、その声はふんわりと平坦だ。さくさく切って、メープルシロップに浸して躊躇いなく口に入れ、私の顔を見ながら真顔で「おいしい」と言う。幸せそうに食べ、時々パンケーキに関する講釈を口にし、食べ終わると「おいしかった」と言う。

おいしかったね。

私はもともと、友達とは手をつないだり抱きついたり触ったりしたい方の人間なのだが、そしてそれを普段はなるべく、なるべく我慢しているのだが、くまちゃんといるとそのリミッターが完全に外れてしまい、気がつけば常に手をつないでいる。だいたい一緒にいる人に怒られる。パーソナルスペースが狭い人間が仲良くなると、そうなってしまうのだと思う。手をつないだまま入店する私たちを、パンケーキ屋の店員は少しだけ見る。

そういうわけで、私は時々、くまと手をつないでパンケーキを食べに行く。そういう暮らしに、私は子供の頃から憧れていたような気がする。

ここ数ヶ月の仕事の話

雨にも負ける

風にも負ける

雪にも夏の暑さにも負ける

ひ弱な交通手段(電車)を持ち

慾はなく(有給はほしいが)

決して瞋らず(無駄なので)

いつも静かにエクセルをいじっている

一日にコンビニおにぎりと

味噌と少しの野菜(ドレッシング込み199円)(高い)を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに(えっその会議私も出るんですかー?私要りますー?)

よく見聞きし分かりましたと言い

そして忘れる

オフィスの隅のホワイトボードの陰の

小さなデスクの前にいて

東に備品が切れていれば

行って補充してやり

西に部長宛ての内線があれば

取って今はいませんと答え

南に疲れた営業くれば

すみませんねいま担当がいないんですよと言い

北にトラブルや遅延があれば

行ってお先に失礼しますと言い

一人の時はパンプスを脱ぎ

お客がくればおろおろ歩き

みなに真面目だねと言われ

褒められもせず

苦にもされず

そういうOLに

私はなっている

「ざらざらした葛藤のメロディ」を観た話

以前短歌の関係で知り合った前田沙耶子さん(@penguin_night)という人が二人芝居をやるというので新中野まで出かけて行った。役者をやるのは初めてということで、洗練された演技、とはいかなかったけれど、少し考えることがあったので書いておく。

公園らしき場所に男女がいる。二人はどうやら元恋人同士で、男の方は音楽のため出て行った東京で浮気し放題、女もそれにやり返す形で地元の男と浮気、妊娠、結婚を決めたらしい、ということが分かってくる。「メロドラマのメロって何?」「……メロディドラマ?」「メロディドラマってなに?」といったどうでもよさそうな会話を挟みつつ、二人の会話は少しずつ熱を帯びていく。

終盤、男は初めて素直な自分の気持ちを叫ぶ。そこに力強い、歌声の入った音楽が被さり、音が大きくなり、男の声は半分ほどしか聞き取れない。音楽が止まり、女は男の言葉を少し冷やかし、ややしてからこう話し出す。「18世紀後半、ヨーロッパの舞台劇で、劇中に感情を表現したり、観客の感情を揺さぶるため、音楽を伴奏として使う手法が流行した。音楽に頼って内容が伴っていない、ということから、今は感傷的、通俗的なドラマに対する蔑称として使われている。……メロドラマの語源」「……やっぱりメロディドラマじゃん」「だね」。そして二人は別れる。

あらすじだけを追ってしまえばよくある話で、わざわざ物語にする必要があるだろうか、となってしまう。少なくとも小説でやろうと思ったら、面白くするためにはかなりの腕がいると思う。でも、演劇ならこういうやり方ができる。感情をゆさぶる場面で感情をゆさぶる音楽を流し、(意図したものかは分からないが)台詞よりも曲を押し出す。そこをぱっと切ってしまって、「メロドラマ」的な台詞を笑う。これは演劇か映画にしかできない。上手だなあ、と思った。

さて、ボカロ曲でこういうものがある。

弱音ハク】どうせお前らこんな曲が好きなんだろ?【亞北ネル】 - ニコ百 http://dic.nicovideo.jp/id/4939185

「感動した」と言うとき、私たちはほんとうに「それ」に感動しているんだろうか。脳の中に「気持ちよくなるツボ」みたいなのがあって、内容とかではなくそこをきゅっと押される→感動!みたいになってしまう、ってことはないだろうか。味の素みたいに。速いテンポの曲の転調みたいに。

「ざらざらした〜」ではそこを一旦対象化して、自分で言っちゃうことでちょっと茶化して、でもそのやり方を否定するでもなく上手に利用してまとめる、ということを成功させていたと思う。

演出ってなんなんだろう。私たちは私たちの人生を勝手に演出して、感動したとか泣いたとか、ここが人生のピークだなとか、思ってみたりするのかもしれない。ちょっと茶化しながら。

あとこれは関係ないんですけど、劇中でなにかの言葉を引用されると激しくエモい気持ちになってしまうのは何故なんでしょうね。自分で書いて自分で出演した脚本で「銀河鉄道の夜」の引用をやったことがあるんですけど、噛み噛みでだめでした。引用エモい。引用を感知すると脳の特定のツボをきゅっと押されて→エモい!になるのかもしれない。

引用エモいといえば山田詠美の『学問』は演出に引用を使ったもので、これもかなり感情を操作されます。面白いよ。以上です。

短歌作った話1(2はない)

通勤中に作ったのがほんの少したまったので置いておく。

愛も木も人も羊も爆弾も同じ大きさ絵文字上では

「さあ、光のほうを向いて」と自撮り棒手渡す君はおそらく女神

暗い部屋でタオルケットにくるまって雨の降りだす音を聞き取る

「かわいい」と性欲の重なるところ 雨が止んだら散歩に行こう

満員の電車の中で君が作るポニーテールに叩かれ続け

「あの路線止まりやすいよ川を渡るし二つ渡るし」

多分同じマンションに住んでる人のフォロワー数が22000人

8月と蝉が同時にみな死んで この世の主人公ははにゅうくん

少しだけ水浴びをして米を食う 私は神奈川原産の鳥

difficultがこの世で一番難しい単語だったころ出会ったふたり