好きなことの話

好きなことの話をします

【SS】クミンシード

 私たちはここで別れ話をするだろう。
 壁一面に作りつけられた棚には、ぴったりとスパイスの瓶が並べられている。フェイクかしらと近づいてみたら、ラベルも中身もひとつひとつ違っていて驚いた。客席は暗めの間接照明なのに対して、厨房のほうは白々と明るい。大柄な男性に皿を手渡されたあなたが、こちらの暗がりへと歩いてきた。
「はい」
「ありがとう」
 私は微笑む。幾重にも重なり混ざり合ったスパイスの香りが胃をひと撫でした。それからバターの香り。黄色いバターの塗られたナンは皿からはみ出すほど大きい。
 あなたは一度厨房のほうに戻って、白い飲み物が入ったグラスを二つ持ってきた。今度は机に置くなり私の向かいに座る。あなたの腕は、身長にくらべてとても長い。ときどき、その長さを持て余しているように見える。
「ラッシーは店長のサービス。おいしいよ」
「ラッシー? マンゴーのやつ?」
「マンゴーのほうがよかった? でも、うちのはただのラッシーのほうがおいしいよ。カレーに合う」
 言って、あなたはストローに口をつける。「食べないの?」と聞くと、あなたは笑って「さっき食べた」と言った。私はうなずいてナンをちぎる。
 私は一目でこの店が気に入ってしまっていた。あなたが高校生のころから、五年以上アルバイトをしているこの店は、ほとんどあなたの一部に見える。
 いや、当然のことだが、この店の一部があなたなのだ。私は心の底で考えを改めた。あなたがこの店を気に入り、長く居る間に、店はあなたを取り込み、あなたは店の一部を成すことになった。隣り合って生えた木と蔓草が、絡まりあって互いの区別がつかなくなるように。
 付き合いだして、まだ間がない。その段階の男女がそうであるように、私たちはお互いの愛情の終わりを全く想像できないでいた。どこへ行っても楽しくて、連絡が来れば嬉しかった。嫌いなところはまだ見えず、好きなところは会うたび見つかった。そうして、どこか行きたいとこある、と聞かれたとき、迷いなく「バイト先に」と答えた程度には、私たちは心を許しあっていた。
 けれど私たちはここで別れ話をするだろう。いずれ、一年後か十年後か、私がここに通い慣れ、ほかの店員に顔を覚えられ、からかわれ、やがてからかわれることもなくなって、友情すら覚えてきたころに、私たちはここで別れるだろう。そして私はこの店のことを、あなたのことを抜きにしても大好きになっていたにもかかわらず、以降来られなくなってしまう。店員たちも残念がるけれど仕方ない。そういう人たちも一人辞め、二人辞め、店員がみな入れ替わるころには、店長も私のことを忘れている。
 ナンはぱりぱりと裂けて、私の思うのと違うかたちにちぎれた。大きすぎる。さらに半分にちぎってカレーを掬い、口にいれる。辛いだけでもない、しょっぱいだけでもない、複数種類の味が同時にして、私は少しの感嘆とともにカレー皿を見下ろす。指にこぼれたのを舐めとると、あなたがそれをじっと見ているのがわかった。
 あのころはちょっとした仕草もセクシーに見えたなとあなたは思う。指についたカレーを舐めとる仕草とか、手をはたいて粉砂糖を落とすところとか、スニーカーの紐を結びなおすのに、スカートを折りたたんで座る姿とか、焼き鳥屋のカウンターの中を覗こうとするときとか。見飽きることがなかった。それが、今はもう遠い、とあなたは思う。ベッドの上の姿も、全然セクシーじゃない姿もよく知って、自分にとっての魅力というのは、隠れているということだったとあなたは知る。そう思ったことに、あなたは少し失望する。こんなつまらないことを考えるようになったなんて。隠れているのがセクシー? あの頃と同じようにカレーを前に顔をほころばせる恋人と、別れ話をする日になって、自分がこんな人間だということを、思い知るようになるのだ。
「おいしい?」
 あなたは、現在のあなたは、私の顔を覗き込んで、目元だけで笑う。「おいしい」と笑顔で答えながら、私は今のあなたと、将来のあなたとを重ね合わせて、静かに苦しく思っている。私はこのカレーを食べながら、あなたはこのラッシーを飲みながら、この席で、こんな夜に、別れ話をするだろう。

 そう思ってたの。
 私が言うと、あなたは私の目を見たまま、何回か瞬きをした。「それは……」と、あなたは首をこっとんと左に倒す。「たしか、2回目か、3回目のデートのときの話?」
「そう」
 あなたは手にクミンシードの瓶を持っている。このあたりで一番遅くまでやっているスーパーのスパイス売り場には、閉店を知らせる音楽が流れはじめていた。急がなくちゃ、と言っていたあなたは、私の言葉を聞いて、完全に動きを止めている。その、驚いたときの無表情が、大学生のころと変わらない。私は微笑ましくなって、あなたの手から瓶を受け取った。
「あれから何回もあの店に行って、そのたびに思ってた。ここで別れ話をするって。ねえ、引っ越してから何年?」
「七年」
「そう、じゃあ七年前か、最後にあの店に行ったときもね、そう思ってた。ここに、なんでだかここに戻ってきて、別れ話をするんだって」
 手元の籠にクミンを入れると、あなたはぎくしゃくとその籠を私の手から受けとった。レジのほうに歩いて行きながら、「それは、どうして? 俺との付き合いが不安だった?」と聞く。そうじゃないの、と私は言いながら、腹のあたりを撫でる。でも、うまく説明できないの。
 あなたはしばらく黙っていたが、指輪のはまった左手で私の肩を軽く抱き寄せ、「でもまあ、それは本当にならなかったわけだ」と明るい声で言った。「そんな風に思ってたのに、十二年何事もなく過ぎたんだから」
「何事もなく? 本当に?」
 私はわざと意地悪な声を出した。あなたは目元だけで笑って、私の肩に肩をぶつけてくる。スーパーの照明は、あの日の厨房のように白々と明るい。私も笑った。
 でも、あの店はまだある。私たちが恋の始まりのときめきのままに見つめ合った、あの暗い店がある以上、私たちはやっぱりいずれそこで、別れ話をすることになるだろう。

くまとパンケーキ

パンケーキが好きな女の子がいて、私はその子をくまちゃんと呼んでいる。くまというのは本名の一部で、だからたいしたあだ名ではないのだけど、ある時手帳に彼女との約束を書いていて、「くまとパンケーキ」という字面を見た瞬間に、ぱっとその呼び方に親しみがわいた。くまとパンケーキを食べに行く。絵本か。川上弘美か。

よく後輩とパンケーキ食べに行くよ、そうそう、パンケーキ専門店に、と言うと、「女子力〜」と言われることがある。揶揄まじりに言われることもある。でもおそらく、そう言う人がイメージする「パンケーキ好きな女の子」と、くまちゃんとは少し違っている。

パンケーキが運ばれてくると、くまちゃんはかならず「おいしそう」と平坦に言う。何度も足を運んでいる原宿レインボーパンケーキでも、乗ったことのない路線でたどり着いた住宅街の奥の純喫茶でも、かならず第一声は「わー」か「おいしそう」で、その声はふんわりと平坦だ。さくさく切って、メープルシロップに浸して躊躇いなく口に入れ、私の顔を見ながら真顔で「おいしい」と言う。幸せそうに食べ、時々パンケーキに関する講釈を口にし、食べ終わると「おいしかった」と言う。

おいしかったね。

私はもともと、友達とは手をつないだり抱きついたり触ったりしたい方の人間なのだが、そしてそれを普段はなるべく、なるべく我慢しているのだが、くまちゃんといるとそのリミッターが完全に外れてしまい、気がつけば常に手をつないでいる。だいたい一緒にいる人に怒られる。パーソナルスペースが狭い人間が仲良くなると、そうなってしまうのだと思う。手をつないだまま入店する私たちを、パンケーキ屋の店員は少しだけ見る。

そういうわけで、私は時々、くまと手をつないでパンケーキを食べに行く。そういう暮らしに、私は子供の頃から憧れていたような気がする。

ここ数ヶ月の仕事の話

雨にも負ける

風にも負ける

雪にも夏の暑さにも負ける

ひ弱な交通手段(電車)を持ち

慾はなく(有給はほしいが)

決して瞋らず(無駄なので)

いつも静かにエクセルをいじっている

一日にコンビニおにぎりと

味噌と少しの野菜(ドレッシング込み199円)(高い)を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに(えっその会議私も出るんですかー?私要りますー?)

よく見聞きし分かりましたと言い

そして忘れる

オフィスの隅のホワイトボードの陰の

小さなデスクの前にいて

東に備品が切れていれば

行って補充してやり

西に部長宛ての内線があれば

取って今はいませんと答え

南に疲れた営業くれば

すみませんねいま担当がいないんですよと言い

北にトラブルや遅延があれば

行ってお先に失礼しますと言い

一人の時はパンプスを脱ぎ

お客がくればおろおろ歩き

みなに真面目だねと言われ

褒められもせず

苦にもされず

そういうOLに

私はなっている

「ざらざらした葛藤のメロディ」を観た話

以前短歌の関係で知り合った前田沙耶子さん(@penguin_night)という人が二人芝居をやるというので新中野まで出かけて行った。役者をやるのは初めてということで、洗練された演技、とはいかなかったけれど、少し考えることがあったので書いておく。

公園らしき場所に男女がいる。二人はどうやら元恋人同士で、男の方は音楽のため出て行った東京で浮気し放題、女もそれにやり返す形で地元の男と浮気、妊娠、結婚を決めたらしい、ということが分かってくる。「メロドラマのメロって何?」「……メロディドラマ?」「メロディドラマってなに?」といったどうでもよさそうな会話を挟みつつ、二人の会話は少しずつ熱を帯びていく。

終盤、男は初めて素直な自分の気持ちを叫ぶ。そこに力強い、歌声の入った音楽が被さり、音が大きくなり、男の声は半分ほどしか聞き取れない。音楽が止まり、女は男の言葉を少し冷やかし、ややしてからこう話し出す。「18世紀後半、ヨーロッパの舞台劇で、劇中に感情を表現したり、観客の感情を揺さぶるため、音楽を伴奏として使う手法が流行した。音楽に頼って内容が伴っていない、ということから、今は感傷的、通俗的なドラマに対する蔑称として使われている。……メロドラマの語源」「……やっぱりメロディドラマじゃん」「だね」。そして二人は別れる。

あらすじだけを追ってしまえばよくある話で、わざわざ物語にする必要があるだろうか、となってしまう。少なくとも小説でやろうと思ったら、面白くするためにはかなりの腕がいると思う。でも、演劇ならこういうやり方ができる。感情をゆさぶる場面で感情をゆさぶる音楽を流し、(意図したものかは分からないが)台詞よりも曲を押し出す。そこをぱっと切ってしまって、「メロドラマ」的な台詞を笑う。これは演劇か映画にしかできない。上手だなあ、と思った。

さて、ボカロ曲でこういうものがある。

弱音ハク】どうせお前らこんな曲が好きなんだろ?【亞北ネル】 - ニコ百 http://dic.nicovideo.jp/id/4939185

「感動した」と言うとき、私たちはほんとうに「それ」に感動しているんだろうか。脳の中に「気持ちよくなるツボ」みたいなのがあって、内容とかではなくそこをきゅっと押される→感動!みたいになってしまう、ってことはないだろうか。味の素みたいに。速いテンポの曲の転調みたいに。

「ざらざらした〜」ではそこを一旦対象化して、自分で言っちゃうことでちょっと茶化して、でもそのやり方を否定するでもなく上手に利用してまとめる、ということを成功させていたと思う。

演出ってなんなんだろう。私たちは私たちの人生を勝手に演出して、感動したとか泣いたとか、ここが人生のピークだなとか、思ってみたりするのかもしれない。ちょっと茶化しながら。

あとこれは関係ないんですけど、劇中でなにかの言葉を引用されると激しくエモい気持ちになってしまうのは何故なんでしょうね。自分で書いて自分で出演した脚本で「銀河鉄道の夜」の引用をやったことがあるんですけど、噛み噛みでだめでした。引用エモい。引用を感知すると脳の特定のツボをきゅっと押されて→エモい!になるのかもしれない。

引用エモいといえば山田詠美の『学問』は演出に引用を使ったもので、これもかなり感情を操作されます。面白いよ。以上です。

短歌作った話1(2はない)

通勤中に作ったのがほんの少したまったので置いておく。

愛も木も人も羊も爆弾も同じ大きさ絵文字上では

「さあ、光のほうを向いて」と自撮り棒手渡す君はおそらく女神

暗い部屋でタオルケットにくるまって雨の降りだす音を聞き取る

「かわいい」と性欲の重なるところ 雨が止んだら散歩に行こう

満員の電車の中で君が作るポニーテールに叩かれ続け

「あの路線止まりやすいよ川を渡るし二つ渡るし」

多分同じマンションに住んでる人のフォロワー数が22000人

8月と蝉が同時にみな死んで この世の主人公ははにゅうくん

少しだけ水浴びをして米を食う 私は神奈川原産の鳥

difficultがこの世で一番難しい単語だったころ出会ったふたり

東京文学フリマ(春)に出た時の話

今さらかよ という声が四方八方から聞こえるんですけど、5/1文学フリマ東京に来てくださったみなさんありがとうございました。

中学の頃は文学賞を最年少受賞してあいつらを見返すことだけを考えていた。高校の頃は誰にも読まれたくないと思っていた。大学の頃は他人の作品を読まないサークル部員に苛立っていた。
小説のようなものを書き始めて12年あまり、「読んでくれてうれしい」という気持ちを持ったことは一度もなかった。褒められれば嬉しかった、読んでもらえればありがとうを言った、批判されれば悔しかった。でも読者に対して感謝の気持ちを持ったことは一度もなかった。私は中学生のころの自分を救済するために小説を書いていると思っていたし、うまくなりたいのはプライドのためだった。 でも、お金を出して買ってくれる人の顔を見て、初めて読んでくれてありがとうと思った。現金ですね。今までは、どんなに赤を入れられても、目の前で読んでいるのを見ても、興味があるのは評価だけだった。
下手くそクソ野郎買って損したと思われていたとしても、買った後読まずに積まれていたとしても、買ってくれた人みんなにどうもありがとうと思う。 どうもありがとうございました。

秋の文フリには出ませんが、また機会を作って行きたいと思っています。がんばって書きます。

以下は出展に関する覚書です。
「小規模サークルはどうしたらいいんだ!!20冊だけ売りたいんだ!!」と思ったのにあまり情報がなかったので、なにかのお役に立てば。

○前提

・知名度ゼロ、フォロワー160人なので売れる見込みはなし。ただし元文芸サークルのオタクなので同人誌を買う文化のある人が身の回りに多い
・文フリは大学のサークルで数回出ているが一人での参加は初めて
・追記:印刷所の価格などはすべて2016年5月現在のものです。実際の値段は各公式サイトをご確認ください

○値段の話

文庫版160ページ400円で売りましたが、これはどうやら相当安い部類のようです。
今日たまたま「100ページ1000円の小説同人誌は買えない、挿絵つき20ページ500円で」と言ってる人を見かけましたが、それはいくらなんでも高いかな……周りを見渡すと、100ページ1000円もいれば30ページ無料もいれば300ページ500円もいるという感じで、ばらつきは大きいようです。
製本直送.comさんを使い、原価は1冊につき630円強(普通便の場合。後述)。ブースが5500円。ぜんぶ売れたら印刷代・ブース代・その他諸費用の3分の1くらいは回収できるかな、というのが400円でした。手にとってもらいたかったし。

○印刷所の話

・安い
・速い
・入稿が楽
という観点から製本直送.comさんにお世話になりました。pdfで表紙も本文も一緒のデータを送ることができ、やりとりも注文のみなので大変楽でした。仕上がりもきれいでよかった。
ただ、1回目の注文で届いたものと2回目の注文で届いたもの、データは同じなのに表紙の色味がかなり違ったので、イラストなどカラーを重要視する場合には向かないかもしれません。その他は問題なく、渡した人に「ちゃんと本だぁ!」と言われる仕上がりです。
f:id:rikka_6:20160826194701j:plain あと、トップページに「混雑状況ふつう3〜8日でお届け(目安)」とあったので10日前に注文しようとしたら、注文直前に「普通便の場合10日以上かかることもあるから心配なら急行便にしときなよ」というようなことが書いてありびびりました。調べたらやっぱり2週間かかったという人もいたし、コミティアともかぶっていたので、念のため急行便(値段1.5倍)に。余裕を持って入稿したほうがよさそうです。

めちゃめちゃに悩んでいる様子です。

○ブースの話

お友達の空木コウさん(@soraki_koh)がイラストを描いてくださることになったのでよろこんでお願いし、データでもらったのをA4で印刷して段ボールに貼って立てました。
当日これを立てて、本を積み上げ、フリーペーパーを並べ、お金を入れた缶を置いたら……せ、せまい。 f:id:rikka_6:20160826194734j:plain 文フリは長机の半分が1ブースなんですが、思ってるより狭いので、一度測って並べてみるのがよさそうです。
あと、この立てた裏に取り置き分を置いたり、お金を数えたりできたのがよかったです。空木さんありがとう。
見本用の一冊を立ててるスタンドはハンズで買いました。たぶん500円くらいだったと思う。
飾り付けとかはほぼしなかったですが、すごく飾ってるブースはやっぱり目を引くなあと思いました。次はもうちょっと準備したいものです。
それから、今回はお隣が欠席だったのでわりと余裕がありましたが、後ろ側も結構狭いです。荷物の多い人や、メンバーが多いサークルは工夫が必要だと思います。

○取り置きと冊数の話

印刷前は取り置き依頼5人くらいだったので、20冊刷りました。
それが印刷できたよーとツイートしたとたんもう5人、当日になって行きますと言ってくれた人が5人、といった感じで、ぜんぜん一見さんに売れない!!と焦りました。ので、買いにきてくれた人を優先して、別の日に会える人は待ってもらい、あとから20冊刷り足しました。 やっぱり表紙とかものが見えるとほしい気持ちが高まるし、ツイッターなどだと「買います」「えっじゃあ私も」という感じで次々来ます。「郵送OKって知ってたらもっと早く言ったのに」という人もいました。
・アピールが足りなかった
・取り置き受け付けますよ、と言うのが遅かったし、取り置き依頼に締め切りを設けるとよかった
・郵送受け付けますよ、と言うのも遅かった
・最悪家に在庫を置けばいいんだからもっと思い切ればよかった
あたりが反省点です。

○当日売れたかの話

上記のようなごたごたがあり、知り合いに10冊、それ以外に9冊売れて、終了1時間前に完売となりました(除見本誌)。上出来と思います。 なぜか前半に男性が、後半に女性が集中していました。男性のほうが来るの早いのかな……?

○その他当日までにやったこと

・当日朝は遅刻しました。開場と同時に駆け込む必要はないですが、余裕持って行きましょう。
・見本誌コーナーには置きましたが、効果のほどは不明です。効果あったといいな。
・帯ぜったいあったほうがいいです。帯を見て買ってくださった方もいました。ちゃんとした本っぽさも出ます。「同人誌 帯」でググりましょう。
・100円玉を入れる缶は持って行ったんですが、お札が困った。封筒など持っていくといいです。
・事前に頼まなかったんですが、来てくれた友人が一時的に売り子を変わってくれました。ごはんも食べたしお手洗いも行ったしありがたかった。事前に頼んでおくとよさそうです。お礼の品がなにもなく焦りました。
・カレーうまい。

○通販の話

なかなか会えない友達や遠方に住んでいるフォロワーさんがほしいと言ってくれたのでBOOTHを開設しました。送料(スマートレターにしたので180円)は相手負担にさせてもらって、手数料分は上乗せしませんでした。冊数が多いと地味に手数料が増えていくので、ちゃんと計算したほうがよさそうです。
個人情報の問題もあり、欲しいと言ってくれた人だけにURLを教える形にしました。

○収支の話

文フリ出店料 5500円
製本(1回目、急行オプションつき)18616円
製本(2回目)12786円
その他 500円
BOOTH手数料 815円
計38217円

売上400円*37冊=14800円
カンパ他 1600円
計16400円

-23417円の出費でした。年1〜2でこの程度の出費なら、そんなにめちゃくちゃに高い趣味ではないと思います。
もちろん値付けや印刷業者などにより、もっと高くなったり安くなったりすることも十分考えられます。

 

以上、文フリサークル参加に関する諸々でした。文フリに出たいなと思っている小規模サークルさんにとってなにかの足しになればうれしいです。

高野文子「奥村さんのお茄子」の話

『棒がいっぽん』高野文子より「奥村さんのお茄子」の話をする。

一応ネタバレしない感じに書きましたが、そのぶん未読の方には何が何やら分からないかもしれない。とにかく読んでください。たのむ。これはアフィリエイトではありません。

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

さて、昨日食べたものを覚えていますか。私は手巻き寿司。お麩とわかめのお吸い物、茄子の揚げ浸し。お昼はカップ焼きそば。家族の冷やし中華を作ったら、薄焼き卵が綺麗にできたんだった。朝ごはん?えーと、ホットケーキかな。ヨーグルトも食べたかも。じゃあ、一昨日の晩ご飯は?……ええと、油淋鶏。それから……副菜はなんだっけ。肉じゃがかな。お昼ご飯?お昼ご飯は……ええと……えっとね……あ、そうだ、サンドイッチ!朝ごはんは、なんか、パン!

じゃあ、二十五年前のお昼ごはんは?

この漫画は、こう聞かれるところから始まる。

「一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」

主人公、奥村さんにこう聞いてきたのは、遠久田と名乗る謎の女。「とっても遠くから来ました」という彼女は、彼女の先輩の汚名を晴らすため、25年前、19歳のころの奥村さんの、6月6日のお昼ごはんのおかずを聞きにくる。「茄子」を中心に、物語は思わぬ方向へ転がりだす。ホラーにしてSF、シュールにしてあたたかい。傑作と言ってまちがいないでしょう。

25年前、私は生まれてないので適当に20年前と置き換えてみます。1996年6月6日。そんな日、ほんとうに実在したんでしょうか。ウィキペディアを見ても、たいしたことは起こらなかったようですね。1968年6月6日はどうでしょうか。あ、ロバート・ケネディが暗殺された日とのこと。でもこれは、19歳の奥村さんにはなにも関係ないようです。

あー今日なんにもしなかったな、という日がありますよね(私にはとてもよくあります)。あるいは、会社に行って仕事をして、定時には終わらなかったけどたいした残業もしないですんで、まあまあかなって帰れた日。久しぶりのデートも大事な会議も、心浮き立つ出来事も気持ちの沈む出来事もなく、ただ過ぎていった日。

そういう日も、私たちはなにかを食べている。

奥村さんは1968年6月6日について、呆然とこう独白する。

「俺……なんか食ってんだ……」

1968年6月6日は、奥村さんの人生で、なくてはならない日ではない。この日でなくても彼は試験に合格しただろう、バイクも得ただろう、食堂の夫婦と仲良くしただろう。なんの日でもない、6月6日。

けれど、そういう日を積み重ねたその上に、私たちは立っている。思い出せない、無数の(「漬け茄子なんて百個は入ってんだよーーっ」)漬け茄子の上に。

すべてを告白したあとの遠久田は、つぶやくように言う。

「楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も 悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も どっちも六月六日の続きなんですものね」

「ほとんど覚えてないような、あの茄子の その後の話なんですもんね」

物語のショックからさめ、食べ物から視線をはずすと、さりげなく、しかし執拗に書き込まれているのは、生活のディティールだ。それは最初の一ページから最後の一ページまで明らかだ。特に一ページ目は圧巻だ。カメラは蕎麦屋の前にいる。横長のコマが進むと、カメラも進み、蕎麦屋の自動ドアが開いて店内へ。テーブル席の奥の座敷、背中合わせに座る二人が現れる。そして遠久田のセリフ。「あの ちょっとお尋ねしたいんですが 一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」この数コマの間に、はしゃぐ子供、ブビビビビと音を立てながら過ぎるスクーター、老人の杖、不機嫌そうに財布をしまう女、ブーンと音を立てる蕎麦屋の扉、隣の建物の看板、などが緻密に、しかし簡素な線で描かれる。

日常のディティールは瞬時に消えていく。私が一昨々日の晩ご飯を思い出せないように、世界は現れては消え、同じことを繰り返し、やがて完全に失われる。それどころか、私たちの観測していないところで、バッタは跳ね、捨てられたカップは道端に佇み、炊飯器は音を立てる。今この瞬間にも、なにかが起こっている。見えないところで、あるいは見えるところで、無数に。

私たちが積み重ねてきたあの日、積み重ねていくだろうその地層、そこに置き去りにしてきた食べ物、生活、言葉。世界は私が想像するより何億倍も分厚いということ、そしてそこに世界はたしかにあったということを、私たちはこんなふうに思い知らされる。