好きなことの話

好きなことの話をします

「ざらざらした葛藤のメロディ」を観た話

以前短歌の関係で知り合った前田沙耶子さん(@penguin_night)という人が二人芝居をやるというので新中野まで出かけて行った。役者をやるのは初めてということで、洗練された演技、とはいかなかったけれど、少し考えることがあったので書いておく。

公園らしき場所に男女がいる。二人はどうやら元恋人同士で、男の方は音楽のため出て行った東京で浮気し放題、女もそれにやり返す形で地元の男と浮気、妊娠、結婚を決めたらしい、ということが分かってくる。「メロドラマのメロって何?」「……メロディドラマ?」「メロディドラマってなに?」といったどうでもよさそうな会話を挟みつつ、二人の会話は少しずつ熱を帯びていく。

終盤、男は初めて素直な自分の気持ちを叫ぶ。そこに力強い、歌声の入った音楽が被さり、音が大きくなり、男の声は半分ほどしか聞き取れない。音楽が止まり、女は男の言葉を少し冷やかし、ややしてからこう話し出す。「18世紀後半、ヨーロッパの舞台劇で、劇中に感情を表現したり、観客の感情を揺さぶるため、音楽を伴奏として使う手法が流行した。音楽に頼って内容が伴っていない、ということから、今は感傷的、通俗的なドラマに対する蔑称として使われている。……メロドラマの語源」「……やっぱりメロディドラマじゃん」「だね」。そして二人は別れる。

あらすじだけを追ってしまえばよくある話で、わざわざ物語にする必要があるだろうか、となってしまう。少なくとも小説でやろうと思ったら、面白くするためにはかなりの腕がいると思う。でも、演劇ならこういうやり方ができる。感情をゆさぶる場面で感情をゆさぶる音楽を流し、(意図したものかは分からないが)台詞よりも曲を押し出す。そこをぱっと切ってしまって、「メロドラマ」的な台詞を笑う。これは演劇か映画にしかできない。上手だなあ、と思った。

さて、ボカロ曲でこういうものがある。

弱音ハク】どうせお前らこんな曲が好きなんだろ?【亞北ネル】 - ニコ百 http://dic.nicovideo.jp/id/4939185

「感動した」と言うとき、私たちはほんとうに「それ」に感動しているんだろうか。脳の中に「気持ちよくなるツボ」みたいなのがあって、内容とかではなくそこをきゅっと押される→感動!みたいになってしまう、ってことはないだろうか。味の素みたいに。速いテンポの曲の転調みたいに。

「ざらざらした〜」ではそこを一旦対象化して、自分で言っちゃうことでちょっと茶化して、でもそのやり方を否定するでもなく上手に利用してまとめる、ということを成功させていたと思う。

演出ってなんなんだろう。私たちは私たちの人生を勝手に演出して、感動したとか泣いたとか、ここが人生のピークだなとか、思ってみたりするのかもしれない。ちょっと茶化しながら。

あとこれは関係ないんですけど、劇中でなにかの言葉を引用されると激しくエモい気持ちになってしまうのは何故なんでしょうね。自分で書いて自分で出演した脚本で「銀河鉄道の夜」の引用をやったことがあるんですけど、噛み噛みでだめでした。引用エモい。引用を感知すると脳の特定のツボをきゅっと押されて→エモい!になるのかもしれない。

引用エモいといえば山田詠美の『学問』は演出に引用を使ったもので、これもかなり感情を操作されます。面白いよ。以上です。

短歌作った話1(2はない)

通勤中に作ったのがほんの少したまったので置いておく。

愛も木も人も羊も爆弾も同じ大きさ絵文字上では

「さあ、光のほうを向いて」と自撮り棒手渡す君はおそらく女神

暗い部屋でタオルケットにくるまって雨の降りだす音を聞き取る

「かわいい」と性欲の重なるところ 雨が止んだら散歩に行こう

満員の電車の中で君が作るポニーテールに叩かれ続け

「あの路線止まりやすいよ川を渡るし二つ渡るし」

多分同じマンションに住んでる人のフォロワー数が22000人

8月と蝉が同時にみな死んで この世の主人公ははにゅうくん

少しだけ水浴びをして米を食う 私は神奈川原産の鳥

difficultがこの世で一番難しい単語だったころ出会ったふたり

東京文学フリマ(春)に出た時の話

今さらかよ という声が四方八方から聞こえるんですけど、5/1文学フリマ東京に来てくださったみなさんありがとうございました。

中学の頃は文学賞を最年少受賞してあいつらを見返すことだけを考えていた。高校の頃は誰にも読まれたくないと思っていた。大学の頃は他人の作品を読まないサークル部員に苛立っていた。
小説のようなものを書き始めて12年あまり、「読んでくれてうれしい」という気持ちを持ったことは一度もなかった。褒められれば嬉しかった、読んでもらえればありがとうを言った、批判されれば悔しかった。でも読者に対して感謝の気持ちを持ったことは一度もなかった。私は中学生のころの自分を救済するために小説を書いていると思っていたし、うまくなりたいのはプライドのためだった。 でも、お金を出して買ってくれる人の顔を見て、初めて読んでくれてありがとうと思った。現金ですね。今までは、どんなに赤を入れられても、目の前で読んでいるのを見ても、興味があるのは評価だけだった。
下手くそクソ野郎買って損したと思われていたとしても、買った後読まずに積まれていたとしても、買ってくれた人みんなにどうもありがとうと思う。 どうもありがとうございました。

秋の文フリには出ませんが、また機会を作って行きたいと思っています。がんばって書きます。

以下は出展に関する覚書です。
「小規模サークルはどうしたらいいんだ!!20冊だけ売りたいんだ!!」と思ったのにあまり情報がなかったので、なにかのお役に立てば。

○前提

・知名度ゼロ、フォロワー160人なので売れる見込みはなし。ただし元文芸サークルのオタクなので同人誌を買う文化のある人が身の回りに多い
・文フリは大学のサークルで数回出ているが一人での参加は初めて
・追記:印刷所の価格などはすべて2016年5月現在のものです。実際の値段は各公式サイトをご確認ください

○値段の話

文庫版160ページ400円で売りましたが、これはどうやら相当安い部類のようです。
今日たまたま「100ページ1000円の小説同人誌は買えない、挿絵つき20ページ500円で」と言ってる人を見かけましたが、それはいくらなんでも高いかな……周りを見渡すと、100ページ1000円もいれば30ページ無料もいれば300ページ500円もいるという感じで、ばらつきは大きいようです。
製本直送.comさんを使い、原価は1冊につき630円強(普通便の場合。後述)。ブースが5500円。ぜんぶ売れたら印刷代・ブース代・その他諸費用の3分の1くらいは回収できるかな、というのが400円でした。手にとってもらいたかったし。

○印刷所の話

・安い
・速い
・入稿が楽
という観点から製本直送.comさんにお世話になりました。pdfで表紙も本文も一緒のデータを送ることができ、やりとりも注文のみなので大変楽でした。仕上がりもきれいでよかった。
ただ、1回目の注文で届いたものと2回目の注文で届いたもの、データは同じなのに表紙の色味がかなり違ったので、イラストなどカラーを重要視する場合には向かないかもしれません。その他は問題なく、渡した人に「ちゃんと本だぁ!」と言われる仕上がりです。
f:id:rikka_6:20160826194701j:plain あと、トップページに「混雑状況ふつう3〜8日でお届け(目安)」とあったので10日前に注文しようとしたら、注文直前に「普通便の場合10日以上かかることもあるから心配なら急行便にしときなよ」というようなことが書いてありびびりました。調べたらやっぱり2週間かかったという人もいたし、コミティアともかぶっていたので、念のため急行便(値段1.5倍)に。余裕を持って入稿したほうがよさそうです。

めちゃめちゃに悩んでいる様子です。

○ブースの話

お友達の空木コウさん(@soraki_koh)がイラストを描いてくださることになったのでよろこんでお願いし、データでもらったのをA4で印刷して段ボールに貼って立てました。
当日これを立てて、本を積み上げ、フリーペーパーを並べ、お金を入れた缶を置いたら……せ、せまい。 f:id:rikka_6:20160826194734j:plain 文フリは長机の半分が1ブースなんですが、思ってるより狭いので、一度測って並べてみるのがよさそうです。
あと、この立てた裏に取り置き分を置いたり、お金を数えたりできたのがよかったです。空木さんありがとう。
見本用の一冊を立ててるスタンドはハンズで買いました。たぶん500円くらいだったと思う。
飾り付けとかはほぼしなかったですが、すごく飾ってるブースはやっぱり目を引くなあと思いました。次はもうちょっと準備したいものです。
それから、今回はお隣が欠席だったのでわりと余裕がありましたが、後ろ側も結構狭いです。荷物の多い人や、メンバーが多いサークルは工夫が必要だと思います。

○取り置きと冊数の話

印刷前は取り置き依頼5人くらいだったので、20冊刷りました。
それが印刷できたよーとツイートしたとたんもう5人、当日になって行きますと言ってくれた人が5人、といった感じで、ぜんぜん一見さんに売れない!!と焦りました。ので、買いにきてくれた人を優先して、別の日に会える人は待ってもらい、あとから20冊刷り足しました。 やっぱり表紙とかものが見えるとほしい気持ちが高まるし、ツイッターなどだと「買います」「えっじゃあ私も」という感じで次々来ます。「郵送OKって知ってたらもっと早く言ったのに」という人もいました。
・アピールが足りなかった
・取り置き受け付けますよ、と言うのが遅かったし、取り置き依頼に締め切りを設けるとよかった
・郵送受け付けますよ、と言うのも遅かった
・最悪家に在庫を置けばいいんだからもっと思い切ればよかった
あたりが反省点です。

○当日売れたかの話

上記のようなごたごたがあり、知り合いに10冊、それ以外に9冊売れて、終了1時間前に完売となりました(除見本誌)。上出来と思います。 なぜか前半に男性が、後半に女性が集中していました。男性のほうが来るの早いのかな……?

○その他当日までにやったこと

・当日朝は遅刻しました。開場と同時に駆け込む必要はないですが、余裕持って行きましょう。
・見本誌コーナーには置きましたが、効果のほどは不明です。効果あったといいな。
・帯ぜったいあったほうがいいです。帯を見て買ってくださった方もいました。ちゃんとした本っぽさも出ます。「同人誌 帯」でググりましょう。
・100円玉を入れる缶は持って行ったんですが、お札が困った。封筒など持っていくといいです。
・事前に頼まなかったんですが、来てくれた友人が一時的に売り子を変わってくれました。ごはんも食べたしお手洗いも行ったしありがたかった。事前に頼んでおくとよさそうです。お礼の品がなにもなく焦りました。
・カレーうまい。

○通販の話

なかなか会えない友達や遠方に住んでいるフォロワーさんがほしいと言ってくれたのでBOOTHを開設しました。送料(スマートレターにしたので180円)は相手負担にさせてもらって、手数料分は上乗せしませんでした。冊数が多いと地味に手数料が増えていくので、ちゃんと計算したほうがよさそうです。
個人情報の問題もあり、欲しいと言ってくれた人だけにURLを教える形にしました。

○収支の話

文フリ出店料 5500円
製本(1回目、急行オプションつき)18616円
製本(2回目)12786円
その他 500円
BOOTH手数料 815円
計38217円

売上400円*37冊=14800円
カンパ他 1600円
計16400円

-23417円の出費でした。年1〜2でこの程度の出費なら、そんなにめちゃくちゃに高い趣味ではないと思います。
もちろん値付けや印刷業者などにより、もっと高くなったり安くなったりすることも十分考えられます。

 

以上、文フリサークル参加に関する諸々でした。文フリに出たいなと思っている小規模サークルさんにとってなにかの足しになればうれしいです。

高野文子「奥村さんのお茄子」の話

『棒がいっぽん』高野文子より「奥村さんのお茄子」の話をする。

一応ネタバレしない感じに書きましたが、そのぶん未読の方には何が何やら分からないかもしれない。とにかく読んでください。たのむ。これはアフィリエイトではありません。

棒がいっぽん (Mag comics)

棒がいっぽん (Mag comics)

さて、昨日食べたものを覚えていますか。私は手巻き寿司。お麩とわかめのお吸い物、茄子の揚げ浸し。お昼はカップ焼きそば。家族の冷やし中華を作ったら、薄焼き卵が綺麗にできたんだった。朝ごはん?えーと、ホットケーキかな。ヨーグルトも食べたかも。じゃあ、一昨日の晩ご飯は?……ええと、油淋鶏。それから……副菜はなんだっけ。肉じゃがかな。お昼ご飯?お昼ご飯は……ええと……えっとね……あ、そうだ、サンドイッチ!朝ごはんは、なんか、パン!

じゃあ、二十五年前のお昼ごはんは?

この漫画は、こう聞かれるところから始まる。

「一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」

主人公、奥村さんにこう聞いてきたのは、遠久田と名乗る謎の女。「とっても遠くから来ました」という彼女は、彼女の先輩の汚名を晴らすため、25年前、19歳のころの奥村さんの、6月6日のお昼ごはんのおかずを聞きにくる。「茄子」を中心に、物語は思わぬ方向へ転がりだす。ホラーにしてSF、シュールにしてあたたかい。傑作と言ってまちがいないでしょう。

25年前、私は生まれてないので適当に20年前と置き換えてみます。1996年6月6日。そんな日、ほんとうに実在したんでしょうか。ウィキペディアを見ても、たいしたことは起こらなかったようですね。1968年6月6日はどうでしょうか。あ、ロバート・ケネディが暗殺された日とのこと。でもこれは、19歳の奥村さんにはなにも関係ないようです。

あー今日なんにもしなかったな、という日がありますよね(私にはとてもよくあります)。あるいは、会社に行って仕事をして、定時には終わらなかったけどたいした残業もしないですんで、まあまあかなって帰れた日。久しぶりのデートも大事な会議も、心浮き立つ出来事も気持ちの沈む出来事もなく、ただ過ぎていった日。

そういう日も、私たちはなにかを食べている。

奥村さんは1968年6月6日について、呆然とこう独白する。

「俺……なんか食ってんだ……」

1968年6月6日は、奥村さんの人生で、なくてはならない日ではない。この日でなくても彼は試験に合格しただろう、バイクも得ただろう、食堂の夫婦と仲良くしただろう。なんの日でもない、6月6日。

けれど、そういう日を積み重ねたその上に、私たちは立っている。思い出せない、無数の(「漬け茄子なんて百個は入ってんだよーーっ」)漬け茄子の上に。

すべてを告白したあとの遠久田は、つぶやくように言う。

「楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も 悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も どっちも六月六日の続きなんですものね」

「ほとんど覚えてないような、あの茄子の その後の話なんですもんね」

物語のショックからさめ、食べ物から視線をはずすと、さりげなく、しかし執拗に書き込まれているのは、生活のディティールだ。それは最初の一ページから最後の一ページまで明らかだ。特に一ページ目は圧巻だ。カメラは蕎麦屋の前にいる。横長のコマが進むと、カメラも進み、蕎麦屋の自動ドアが開いて店内へ。テーブル席の奥の座敷、背中合わせに座る二人が現れる。そして遠久田のセリフ。「あの ちょっとお尋ねしたいんですが 一九六八年六月六日木曜日 お昼何めしあがりました?」この数コマの間に、はしゃぐ子供、ブビビビビと音を立てながら過ぎるスクーター、老人の杖、不機嫌そうに財布をしまう女、ブーンと音を立てる蕎麦屋の扉、隣の建物の看板、などが緻密に、しかし簡素な線で描かれる。

日常のディティールは瞬時に消えていく。私が一昨々日の晩ご飯を思い出せないように、世界は現れては消え、同じことを繰り返し、やがて完全に失われる。それどころか、私たちの観測していないところで、バッタは跳ね、捨てられたカップは道端に佇み、炊飯器は音を立てる。今この瞬間にも、なにかが起こっている。見えないところで、あるいは見えるところで、無数に。

私たちが積み重ねてきたあの日、積み重ねていくだろうその地層、そこに置き去りにしてきた食べ物、生活、言葉。世界は私が想像するより何億倍も分厚いということ、そしてそこに世界はたしかにあったということを、私たちはこんなふうに思い知らされる。

葉ね文庫に行った話

大阪に住んでいたことがある。

といってもほんの1年前、たった3ヶ月だけだったので、住んだ、というには短い。初めての一人暮らしは、仕事をして勉強してごはんを作って食べて寝て起きているうちに過ぎていった。それなりに楽しく、それなりに寂しい毎日だった。

しかし、まあ、その日ほどつまらない日はなかった。出かけた相手とは話が合わず、行った店はどれも地元に支店があり、買ったものの満足感は低く、唯一おいしく食べたソフトクリームで胃を冷やして具合が悪くなった。ペンダントのチェーンは切れ、夜が更けても何も食べる気がせず、行こうと思っていた店はラブホの奥で諦めた。酔っ払いも私を避けて通った。わたしは生涯一度もナンパされたことがないのが自慢なのだ。

それで、葉ね文庫に寄った。

葉ね文庫は中崎町の本屋さんだ。短歌・俳句・詩の本を中心に、古本もすこし。わたしは何度かその店に行き本を買ったり、そこで紹介してもらったイベントに参加して孤独を癒したりしていた。営業日なら21:30までやっている(2016年7月現在)のもよかった。

その日はたぶん、岡野大嗣『サイレンと犀』を買ったと思う。とにかくなにかいい本を買わないとやってられない、と思ったのだ。

客はたまたま私だけ、店主の池上さんと話しこんでいるうちに、もうすぐ神奈川に帰るのだが、大阪にいるうちについにたこ焼きを食べなかった、という話になった。

池上さんは「えーっ!そんな!なんでですか!」と言って、おすすめのたこ焼き屋さんを教えてくれた。教えてくれるだけでなく、じゃあちょっと、今から食べに行きますか、と言ってくださった。閉店時間はとうに過ぎていた。

雨が降っていた。どういう経緯か忘れたが、結局小さなお好み焼き屋さんに入った。胃の痛みが心配だったが、池上さんが「私ねえ、けっこう食べるので……」というので甘えることにした。言うまでもないがわたしはよく食べる女性が好きだ。

なんの話をしたのかは、実はだいたい忘れてしまった。今日は恋人の誕生日なんですよね、という話をした覚えがある。どういう人ですか、と聞かれて、「自分の弱みを改善しようと努力を重ねた結果、高い能力と高いプライドを身につけた人」と言ったら、真顔で「分かる気がします」と言われた。分かられた。仕事の話、短歌の話、女の子の話もすこしした気がする。胃の痛みは、ねぎ焼きを食べ始めたあたりからほとんどなくなっていた。

「仕事も変わってるかもしれないし、別の人と付き合うかもしれないし、なにがあるか分からないですよ」というようなことを、池上さんは言ったと思う。入社したばかりで、恋人とも家族ともうまくいっていて、でも、そうだよな、と思った。そうだよな、と思うだけで、なにひとつ想像できはしなかったけれど、想像できないだけで、本当にそうなのだ、と、ただ思った。

お会計でわたしが財布を出すと、「出します、だいぶお姉さんなので……」と言ったのですこし笑ってしまった。正確においくつか知らないのだけれど、わたしの人生のなかで、「だいぶお姉さん」の人間と接したことはほぼないと言ってよかった。大学の先輩よりけっこう上、親よりかなり下。

あーわたし、コミュ症治っちゃったな、とその時思った。夜、予定もないのに急に飲みに行くのも、年上の女性とおしゃべりするのも、帰りが遅くなるのを誰に知らせなくてもいいのも、わたしには許されていないことだった。誰が許すって、まあ、自分が許していなかったのだ。大げさな言い方をするなら、その夜は一種のイニシエーションだった。

先日京都に旅行に行き、大阪に宿を取ったので、葉ね文庫に行った。忘れられているかもしれない……と思ったが、池上さんのほうから「お久しぶりです!」と言ってくださったので嬉しかった。葉ね文庫は本がすごく増えていて、あかるく鬱蒼としていて、よかった。

つまらないもので……新幹線のホームで買ったので……と東京ばな奈を差し出したら、池上さんは「うれしい、これ好き」と笑った。言うまでもないがわたしは甘いものが好きな女性が好きだ。

あの夜の直感は外れ、わたしは相変わらずコミュ障で、実家に暮らして恋人と仲良くやっている。

他人の作品が読みたくて、虫武一俊『羽虫群』を買った。また来ますね、と言って店を出て、フランス食堂セルクルに入りたかったがぐずぐずしているうちにラストオーダーになってしまった。やっぱりコミュ障は完治していない。深夜営業のカフェでアルデンテすぎるクリームパスタを食べた。

(大丈夫かどうかはおれが決めていく一年前の飴はにちゃにちゃ 虫武一俊)

女の子かわいい話をまとめた話

ツイッターで女の子かわいい言い過ぎでは、と思ったのでまとめました。

並べると意外と少なかった。

これを見た友人に「結局君の言うかわいい女の子とは中高生だけなのでは」と言われグッ……!図星……!となったのですが、ち、ちげーし!就活スーツの女子も好きだし!と言い返しました。それくらい中高生と就活生の話が多い。

私は就活がほんとうに嫌で、大学の就活セミナーでは話を聞いているだけで涙が出て、なんとか拾ってもらって二年経った今でも就活関係のアカウントを見るやブロックしているのですが、そのぶん就活をがんばっている人たちを見ると「がんばれ!!」という気持ちで胸が詰まります。あとスーツから私服に戻るのとか、スーツなのに私服成分が含まれてるとかめっちゃエモい。

以上です。

祖母の納骨

祖母が亡くなって一年になる。

そのとき私は大阪に住んでいて、訃報はメールで届いた。外部研修を終えて携帯の電源を入れたら、「おばあちゃんが亡くなりました」という母からのメールが届いていた。私は感情の動かしどころを見極められないまま同期と手を振って別れ、しばらく歩き、Uターンしてベンチに座った。会社に電話をかけて、電話に出た上司に開口一番「お疲れさまです、いまよろしいですか、実は祖母が亡くなりまして」と切り出した。上司がお悔やみの言葉を述べ終わるのを待たず「忌引きの規定についてお伺いしたいんですが」と私は言い、思ったより動揺してるな、と自分に呟いた。

何日から何日まで休むか、その間の研修はどうするか、といったことを打ち合わせている途中、ふいに「お祖母さんとは、仲がよかったんですか」と上司は聞いた。私はなにも考えず「いや……むしろ、苦手で……」と言って、あっいまのはそういう意味じゃなくて、と口の中で言い訳し、「でも、可愛がってもらいました」と続けた。

私はだいたいにして、老人というものが苦手だ。耳が遠くて言葉がろくに通じず、価値観が異なりすぎて共通の話題が見つからない。老人を前にすると私はむやみに緊張し、おどおどと相手の顔を伺って微笑むだけの人形と化す。中でも祖母は、いくつかの事情も重なって、苦手意識を取り除くことができなかった。また来てねえと手を触られて、鳥肌が立ったこともある。ひどい孫だ。どうしてそう苦手だったのかここで言うことはしないが、祖母の名誉のために、祖母の人柄がどうこうというわけでなく、私の受け取り方の問題だった、と言っておきたい。

なにが一番苦手だったかというと、会話がうまく成り立たないことだった。耳が遠いこと、独居が長く話し相手が少ないこと、またそれらへの不安が相まってだろう、祖母は大声で途切れなく喋り、相手の反応はわりにどうでもよさそうだった。私が気を使っておどおどと返す言葉は彼女に届かず、届いたとしても「ああそう」と流された。祖母のコミュニケーションの方法と私のコミュニケーションの方法が、あまりにもかけ離れていたのだ。

祖母の家は坂の途中にある。

私が最後に祖母と会ったとき、祖母はその家の中で静かに弱っていた。耳はより遠く、物忘れはよりひどくなり、会話を成立させるのは、少なくとも私には困難だった。母は辛抱強く祖母の話に相槌を打ち、体調を心配していたが、私は部屋の隅で黙って座っているだけだった。

そろそろ帰ろうという段になって、父が「すぐそこにカタクリが生えるところがあるから、ちょっと見てから帰ろう」と言いだした。父はカタクリの花が好きなのだ。祖母は玄関先まで見送りにきて、ふいに気を変えて、あたしも行く、と言い出した。かなり足も弱っていたので、私と母はやんわりと止めたが、カタクリが生えているのはほんとうにすぐそこだったので、結局は一緒に家を出た。

気の早いたんぼぽが咲いていたのを覚えている。父が、ここらのはカントウタンポポのはずなんだが、これはセイヨウタンポポだな、と言いながら花をちぎって捨てた。カタクリはほんの少しだけ咲いていたが、まあ、もともとあまり華やかな花ではない、私はすぐに飽きて写真も撮らなかった。

ふと気がつくと、父は坂を更に20mほど登っていた。なにか見つけたのか、手を振っている。母が小走りでそっちに行ってしまい、私はそれを追いかけるか迷った。祖母が走れるはずはなく、一人にするのも悪い。私は手持ち無沙汰に母の背中を見送った。

「走ってく」

祖母も母を見送りながらつぶやいた。祖母とそんなふうに二人になるのは、ほとんど初めてのことだった。家族なり、親戚なり、祖母の家には必ず誰かがいた。私から祖母に話しかけたことが、一度でもあっただろうか。

春の陽気が戸惑いを和らげた。私は、「最近、ウォーキングをしてるんですよ」と両親を指して言った。「ここ二週間くらい。ちょっと走ったりしてるみたい」と続けて、祖母を見ると、祖母はいつもどおり「あらそう」と私の言葉を受け流した。

「でも、続けないと意味ないからね」

私ははっとして祖母を見た。聞いたことのないくらい落ち着いたトーンだった。祖母はなんてことのないような顔をしている。私が「……そうですねえ」とつまらない返答をすると、両親はまた小走りで坂を下りてきた。

祖母と私が生まれて初めてまともな会話をしたことも知らず、両親は、向こうの方は黄色いのも咲いてた、と言って笑った。私たちは笑い返し、祖母は家に、私と両親は駅へ向かった。

私は通夜の日の昼にのんびり神奈川に帰ってきて、葬式に出て、なにもせずに大阪に戻っていった。祖母が本格的に体調を崩したのは私が大阪に発ってすぐなので、入院のどたばたにも一切関わっていない。親戚の中で一番遠くにいて、一番なにもしない、そういう立場だった。まあ、何を言う権利もなく、言う気もなく、机を拭いたりごみを捨てたり、その程度の雑用をしただけだ。

だから、祖母と最後に会ったあの日のことを思い出すのに、私はすこし罪悪感がある。つらいところを体験せず、いい思い出だけつまみぐいして、なんというか、都合のいいものだと自分で思うからだ。

一周忌を機に納骨をした。祖母の家の敷地の隅にある墓を石屋に開けてもらい、十年以上前に亡くなった祖父の遺骨と顔を合わせた。祖母の遺骨はその横に、寄り添うように納められた。

石屋はTシャツの裾をだらしなくジャージに突っ込み、タオルで鉢巻をして、手を合わせることもなくさっさと墓を閉めた。経をのべる私たちに構うことなくガスバーナーで線香の束に火をつけて配り歩き、気がついたらいなくなっていた。叔母は渋い顔をしていたし、私も、祖母が見たら嫌な顔をするだろうな、と思ったが、すこし愉快だった。

檸檬の木が墓の側にぬっと生えて、葉をぴかぴか光らせていた。いとこが、これから蝶の幼虫が付くんだよ、と眉を寄せた。